Prune.

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【超短編小説】湖と亡霊

深夜にうごめく亡霊たちの声がする。その声はポリフォニー。重なり合う。

ある霊は不平不満を、ある霊は失望を。そして一つの霊だけは、上等な褒め言葉を口にする。
繋がり合ったり、離れたり、縺れたり、うごめく亡霊たちの姿は無邪気でありながら、シニカルだ。巧みな技と、語り口。霊たちは皆、計量可能な巧緻性の世界にいた。

深夜の扉を開くと、そこには深い青の湖が見える。その青はあまりに深く、例えるなら血液が青くなったよう。混じりけのない青だが、それは少しショッキングだ。

その深い青の湖の畔に、うごめく亡霊たちはたしかに存在する。亡霊が存在するというのもなんだか変な感じだけれど、そこには気配があった。

「ねえ、この湖に身を投げたらあなたが背負っている色々な苦労や哀しみも一気にすっと吹っ飛んでしまうのよ。そしてそれは必ずしもあなたの終わりを意味しない。生きながら、そうした重い荷物を下ろすことだって可能なの。どう、悪い話じゃないでしょう?」

青白い顔をしたショートヘアの女の亡霊が、そう口にする。

僕は、この女の言葉が嘘だと知っていた。

色々な苦労や哀しみ、その重い荷物を背負わずに生きていくことなんてできやしない。

もしそれが生きながらできるのならば、それはお膳立てされた出来レースのようなものだ。苦しさのなかに美しさがあるとは思わないけれど―僕はそこまでマゾヒスティックにはなれないが―少なくとも酸味のなくなったテロワールもへったくれもないワインのような人生はまっぴらごめんだ、と思った。

「たしかに楽な日々じゃない。哀しみや欲望や、いろんな感情を抱えている。けれど、僕はこの湖に身を投げようとは思わないよ。今はまだ。」

そうはっきりとした口調で僕が言葉を女の亡霊にかける。すると、彼女は軽く舌打ちをしたかと思うと、すっと僕の目の前から消えた。

と同時に、うごめく複数の亡霊たちの気配も静かに消えていった。まるで波に押し流れていくかのように。

亡霊たちが消えると、僕の目の前にはいよいよ悠然とした深い青の湖だけがはっきりと残った。その青はさらに青くなり、その湖の深さを想像することはまず不可能だった。

僕のまわりを静かな風が覆う。その風が微動だにしなかった深い青の湖の水面を静かに揺らす。さあっという音がそこら中に広がる。まるで除霊の儀式の最中にいるかのように思える音だった。うごめく亡霊も今やここには”誰も”いない。

寂しさに似ている、しかし決して寂しさそのものではない感情を抱きながら僕はその深い青の湖をしばらくじっと眺めていた。