なんにもなくてごめんね。と彼女はつぶやく。
「なんにもない」と僕はあらためてつぶやく。繰り返す。
僕もきっと「なんにもない」と思う。僕より彼女のほうが、色々なものを持っていて、それはもちろんマテリアルという意味ではなくて、彼女の才能とか、あるいは表情とかそういったものの幅の広さのことを指している。
彼女は長く伸びた爪先を眺めながら、黙っていても、なんにもなくても、日々はただ続いていって、知らないうちに身体も変化しているのだとあらためて気づく。
風が流れる。知らぬ間に雲が遠くへと進んでいる。遠くの橋の上を大型トラックが行き来する。左から、次は右から。
変化している。
ああ、やっぱり僕にはなんにもない。僕には才能がないから、彼女みたいにはなれないなと思う。それは嫉妬でもなんでもなく、事実性しか帯びていない、感情というにはあまりにお粗末な思いであった。
「私はなんにもない。今までも、多分これからも、なんにもない。それが時にはすごく悲しくて、つらくて、でもあるときにはすごく優しくて、心穏やかな気持ちになるの。背負うものも、追われることも、追うこともなければ、それはどんなに気楽なんだろうって。でも、また少しするとなんにもない、なんにもなれない自分が悲しくなるの。」
彼女はそんなふうに話した。
空を飛ぶ飛行機の跡が知らぬ間に伸びている。どうしてこんなに僕らの知らない間に世の中は変わっていて、進んでいるのに、僕らはずっとこんなままなのだろう。
ワンルームの薄暗い部屋に差し込む光は、心の奥を照らすにはまだ足りないみたいだった。