Prune.

好きなことを好きなだけ。

friendly

ふと、昔に付き合っていた人のことを思い出すことがある。

その人のことを思い出すとき、僕の頭のなかには決して彼女の表情であるとか、体型とかそういうものが浮かんでくるわけではない。女の子にしては少し低めで優しげな声とか、しっかりしているように見えて実は結構適当で雑なところとか、そういうところがむしろ記憶に残っている。

彼女はお酒が好きだったから、僕らはよくお酒を飲みに行った。あるいは、外の景色をぼんやりと眺めながらコンビニで買ったお酒を飲んだり、宅飲みしたりもした。

どうして夜風に当たりながらほろ酔い加減で食べるアイスクリームは、あんなに美味しいのだろう。彼女と食べたアイスクリームのことが不意に頭のなかにあらわれる。アイスクリームが急に溶け出してきて、2人で年甲斐もなくはしゃいだ。

もう彼女はここにはいない。彼女がいまどんなふうに過ごしているのか、なにを楽しみに、なにを思って生きているのか、そんなことも知らない。

あれだけ仲良く時間を過ごした人が、まったくの他人になり、他の大多数とおなじになってしまうことは不思議だ。けれど、友達の枠に収まらなくなった関係は、軌道修正をどちらかが主体的にしない限り、引き伸ばされ、多幸感の最後には崩れてしまう。

自分はステーブルな状況に耐え難い人なのかもしれないと思うときがある。安定的な幸せのなかに安住するのも嫌。だけど、すべてが終わってしまうのはもっと嫌だ。結局のところ、我儘なままこんな歳にまでなってしまったのだ。もうすぐ僕は26歳である。

その彼女に限らず、他人はその本人は気づいていないかもしれないけれど、それを目の前で見ている側からしてみたら、ものすごく魅力的であったり、美しく、あるいは切なく見えることがある。人間の存在はここまでの幅を持ち得るのだ、と感じられるのは嬉しいことだ。

雲の切れ間から柔らかな光線が差し込むときのように、その人がその人である美しさが照らし出され、輝いて見える瞬間はあるのだ。それは恋愛とかそういうことに関係なく。

でも、僕は同時にこんなことも思う。その魅力や美しさ、切なさは代替可能で、僕が感じたその瞬間の素晴らしさを実は他の人に対しても同様に感じてしまうのではないか、と。つまり、その人の代わりなど世界に一人もいないのに、その人に感じたこと、その美しさや切なさに感動した記憶も、すべて他の誰かを前にしたときの感情と入れ替え可能なのではないかと。

本当はそんなこと思いたくないのだ。しかし、きっとそうなのだろうと諦念をもって思うこともある。すべては記憶の書き換えと感情のパラメータの問題なのだ。そんなこと言いたくけど、絶対に。

僕はだらしないその彼女の指先のネイルを思い出す。爪が伸びてきて、少しネイルが浮き出ている。彼女のネイルのその深い藍色は、どこかいつも寂しげな彼女自身を表徴するように僕には見えた。寂しげな人はずるい。明るくて、影がない人より、ずっとずっと魅力がある。

深い夜に彼女の指が混ざり合う。彼女は夜の底に手を触れようとする。その藍色は深い夜の静寂にしっくりと似合う。

その夜、僕たちを取り巻くすべては、夜の暗い海に引き寄せられ、すっと音も立てず消えていった。

フレンドリー

フレンドリー