言葉、エクリチュール、ポエティック、諸々の実践
言葉で確かめるような日々の実践がある。文学、歌詞、詩…言葉がいろいろなものを広げていく。
僕は明日を、言葉で確かめていく。同時に過去をも。
すべては読み替えの実践だった。僕はテクストを読み替える。読みの快楽のなかで、僕たちは「はじめまして」と「さよなら」を繰り返していく。
普遍的な言葉と、偶発的な言葉と、単発的で直情的な言葉と。
僕は青白い画面に写った歌詞を眺めて、僕自身が経験したことと照らし合わせてみたり、文字を捻じ曲げてみたり、表象と実体の間を繰り返し行き来したりする。
それが快楽なのだろうか。身体のポエティック化。エクリチュールが身体に溶け込んでくる。文章が身体に入り込んでくるのは痛いだろうに。
いつかいろいろな物事が解決して、新しい地平が開けるとしたら。期待の地平を越えていくような、美しく、心を揺さぶられるようなエクリチュール。
文章を中断させ、ほかなるものと接続させる。林檎が蜜柑になるかのように、文章はあらゆるものを接続させ、接着させる。接着剤、アロンアルファ的なものとしての文章。(一般的な名称と、固有の名称の差異は、僕たちに物事の原型としてのありようと、改変された物事のありようの違いをありありと示してくれる)
覚えていることは―僕たちが覚えていることは―あまりにも少ない。僕の記憶は、断片化され、粉砕され、いずれ全く消えてしまうだろう。もう何もかも消え去ってしまいたいくらいに。
遺されたノート、読み返されるという実践。他者が別の他者の言葉に触れ、他者の内部に入っていくということ。それはあまりに恐ろしくて、同時に美しくて、でもなんだか気持ち悪い。所詮、僕たちは「何一つ」知らないし、「何一つ」分かりあえないはずなのに。
いつも目の前に現れてくる幽霊が、あたかも分かりあえているかのような幻想を作り出している。そそのかされている僕たち。幻想の共犯者にだって、なってしまうかもしれない。
文章が現実を正確に測れないとしたら、あなたは写真を撮るかもしれない。しかし、安心してほしい。写真も(やはり)同様に、現実を測れないだろう。デジタルカメラが写真に映る陰を数値化したとき、その陰は死んだも同然だ。
ひとりごとを彼は言うだろう。今日もきっと。彼女は今日もベッドで悲しい気持ちになって、眠れなくなるだろう。そのとき、エクリチュールには何ができるのだろう。僕は言葉を操って(操っているなどという幻想を抱いて)誰に何ができるだろう。