ゆっくりと沈み込んでいく。それは堕落の結末であり、怠惰の終末でもあった。
汚れた脚で失われたものやひとを追い求める姿を晒しながら生きていく、そんな退廃の日々のなかに光を照らしていく。
本当は何がしたいのだろう。本当はどうなりたいのだろう。本当は、本当は、そんなことを考えている間にも社会は変化し、周囲は変化し、見ている窓からの景色も変わる。
本当は、複雑なこと、大きなことなんてしたくないのだ。きっと。
ただ単に、もっと簡単な原則性、それを守るために、慈しむために、ありたいのだろう。
合理性の海に、意味の沼、表象のカオスに、記号の錯乱。こういった社会を覆う大きな存在にNoという。本当はNoなんて言う勇気がない。けれど、Noというポーズを示す。
密やかに君は、そんな人間を見下し、格好悪いと思うかもしれない。
これが最後だから、これ以上悪いことはないから、悪いことはしないからという嘘を何度もつき、平気で弱い人々を騙す人の顔を見て、ここにも表象のカオスや、記号の錯乱はあると感じる。彼ら自身がそれを認識していなくても、それは共同体の静かな崩壊の予兆なのだ。
運命という言葉をもっと信じたい。それ自体でどうにもならない、その言葉をもって、こうなるしかなかったのだ、こうなってしまったのは仕方がなかったのだと思いたい。堕ちていくのも、昇っていくのも運命。そう思うのは間違っていることではない。多分。
汚れた脚でも、僕らは歩いて、歩いて、歩いていく。散る花を見届けて、それでも歩く。
目標のためではない。合理性のためでもない。経済の繁栄のためでもない。執政者のためでももちろんない。そういう運動性のなかに身を置く社会的動物としてだ。