【短編小説】SUNDAY SONG / SHE SUNG
▼Richard Beirach「SUNDAY SONG」に最大限のオマージュを。
日曜日の朝、彼は買ったばかりの飲むヨーグルトを捨てる。
彼は別にヨーグルトの味に不安があったわけではなかった。ただ、その飲むヨーグルトを飲んでいる自分に嫌気が差しただけだ。
何をしても追いつかない。追いつけない。彼は焦っている。飲むヨーグルトはそんな彼の気晴らしにもならない。
ほのかな(しつこくない)甘みが好きなのに、そのヨーグルトは彼の脳を直接刺激するような過剰な甘さで仕上げられていて、それがとりわけ彼の癪に障った。
「過剰」を仕立てる、物質。「過剰」を表象する、記号。「過剰」の海に溺れる彼。
偽物のゲームで勝利しようとする彼は、過剰の海に溺れ、虚構の記号ゲームにおけるプレイヤーとしての自己を提示しようとする。
彼にとっての日曜日は、安息日でもなく、ただの過剰な曜日であった。
なんの予定もなく、社会的な時間軸から外れた自己を憐れむ日。ソシエテという外部にある、複数の主体との交流もなく、ただ虚構世界の中で自己を演じる日。
日曜日に彼が聴く曲は、いつもピアノジャズだった。そこには過剰さがなく、ソシエテの外部性を表象する要素も存在しなかった。ただピアノの音色が響き、ピアニストという存在が宙に浮くような楽曲。ピアニストという演奏者と彼という視聴者が分離せず、一体化した空間を創造するような楽曲。
彼はそういうピアノジャズが大好きだった。
日曜日はどんな日であるべきだろう。彼にとっての日曜日はそんな日でも、遠くの彼女にとっての日曜日は全く別の日かもしれない。
例えば、ヘルシンキに住む彼女は毎週日曜日に歌を歌う。70年代の往年の名曲を。
彼女はまだ10代なのに、70年代の名曲なんて歌うから、周りの人たちは彼女をとても珍しがる。
ヘルシンキの静かな住宅地の一角に、彼女の歌声は響く。美しきフィンランド語。
彼も彼女も、何かをきっと求めてそういう行為をしているのだろう。
歌っていると気持ちが良いとか、ピアノジャズを聴いているときだけは、現実を忘れられるとか。
日本と遠く離れたヘルシンキで同じように、日曜日を過ごす彼と彼女。グローバリゼーションという言葉のなかで、彼と彼女の行為はどこかで繋がっている。
オンラインでもオフラインでもない世界の人々の日常。その連関、その接続、あるいは、分離。
そんな遠くに思いを馳せると、遠くの美しさが見えてくる。近くから遠くへ。遠くから近くへ。いずれは、その往還の運動へ。