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【超短編エッセイ】他者であること、異なること

者であることとは何だろうか。

電車で隣の席に座った人は他者である。マンションで隣に住んでいる人も他者であるに違いない。しかし、他者であるとは「異なること」を必ずしも意味しない。

そもそも私たちの遺伝子の99.9%は同じである。もちろん、そこには遺伝子の非常に微細な部分が異なることが疾患を引き起こしたりするという医学的事実もある。しかしながら、あくまで数的に思考するならば、異なるのは0.01%だ。単純に考えると、ほとんど同じに思えてしまう。

 

たちが一生のなかで知り合える人々、そこから仲良くなれる人々は限られている。人類80億人の時代にあっても、そこで出会う数は限定的だ。

そこで出会う人たちは私と「異なる」のだろうか。

たしかにあなたが男性なら、女性は異性というだけあって「異なる」かもしれない。あなたが日本人なら、フランス人は「異なる」かもしれない。しかし、その分節は少なくとも言語的に行われているものであり、何と何が異なるかは根源的に存在するわけではなく、いわば規範的、ルールとして存在する。

 

し私たちは気が合うね、とあなたが言われたなら、あなたは他人なのにこれだけ気が合うのは珍しいことなのかもしれない、素敵なことなのかもしれないと思うかもしれない。(きっと、そうだろう)

しかし、実は、もしかすれば、相手は他人ではあるけれど、実は並行世界では兄弟であったりするのかもしれない。並行世界はないとしても、ある種の現実性という運命は、いわば網の目のようなもの、あるいは、あみだくじ的なものであって、その接続経路は偶発的なものだ。

だから、実は本当は一緒であったかもしれないけれど、全く出会うことなく人生が終わりを迎える場合もあるかもしれない。あるいは、本当は一緒だったからこそ、出会い、気が合うねということになっているかもしれない。

遺伝学的な話をしたいわけでもない。これは想像性に基づくフィクションと、リアリズムの交錯を求めて書いているのだ。

結局、すべての現実はリアルであると同時に、フィクションでもあるのだ。多分。