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世代的な、国家的な、ジェンダー的な個

折に触れて自分について考えるとき、よく思うことがある。それは自分は主体的で自由な存在だと思っていても、そんなことは全くなくて、かなりの割合で外部の影響を受けまくっているということ。

タイトルで「世代的な、国家的な、ジェンダー的な個」と書いたけど、特にこれら3つに自分を含めた社会の人々は囚われていると感じる。圧倒的な囚われの身であることに自覚的になることはあまり幸せには思えなくて、むしろそういう囚われに"囚われることなく"無自覚であること、あるいは、認めないという態度を取るほうが幸せな気がする。

ただ、気づいたことがあるのでとりあえず備忘録的に書いておきたい。

まず一つ目の「世代的な」要素について。これはいわゆる、「ゆとり世代」とか「団塊の世代」とか「平成生まれ」とかそういうやつだ。音楽でも文学でも何でもそうだけれど、この世の中は極めて細分化されていて、誰もがカテゴライズをしたがる。

だから、やれ90年代はこうだった、でも00年代はこうだとか、ゆとり世代は学力がとか思考が…とか色々と言われる。

僕たちはこの「世代的」なやつにいつでも追い掛け回されるのだ。それはメディアによって増幅され、本当に世代的な差異があるのかどうかも明確ではないまま、差異があるという物語が創造される。そして、そこに分断/溝が発生する。

平成世代 VS 昭和世代だとか、ほとんどメディアが作為的に作り出した対立構造なんじゃないかと思ったりするんだけど、実際のところどうなんだろうか。過度のカテゴライズは分断を拡大させるだけなような気もする。

次に二つ目の「国家的」な要素について。これはよく聞く「日本的な」とか「アメリカ的な」とかそういうやつだ。国家を一つの柱として、色々なものを区分する。これは海外に行けば否応なく分かるけれど、やはりどの国にも国民性というものはあって、たしかに「日本的」だなあとか「アメリカ的」だなあと思う事柄は存在する。

ただ、だからといって「大人しく礼儀正しい」イメージの日本の人々が、仰々しく無礼にしてはいけないということもないし、「分からないことでも分かる素振りを見せることが良しとされる」アメリカの人々が、分からないことを分からないと正直に言うこともまた咎められることではないと思う。

もちろんその国々の良いイメージというものは大切にするべきだろう。日本人の礼儀正しさやおもてなしの精神といったイメージは当然評価されて然るべきものだ。しかし、そのイメージによって個人の思考まで抑圧されてしまったら、決してそれは社会全体として見たとき良い結果をもたらさないような気がする。みんな違ってみんな良いし、色々な人がいるから社会は繁栄するのだ。

最後に「ジェンダー的」な要素について。これはつまり「男だから」「女だから」というイメージのことだ。「男の子だから強気でいなさい」だとか「女の子だからお淑やかでいなさい」という性別による囚われだ。近年この傾向は弱まってきているように思うけれど、今でも「男の子/女の子」だからこうしなさい、こうすべきというジェンダーのステレオタイプに沿った思考は抜け切れていないと思う。

でも考えてみれば、別に男の子だから強気であるわけでもないし、女の子だからお淑やかであるというのもおかしな話だ。ナイーブな男の子もいれば、勝ち気な女の子だって当然いるだろう。本来、二者択一的な性別で個人の生き方や思考を分断することはできないのだ。俗に言う「男らしい」生き方をしたい人はそうすれば良いだろうし、「女らしい」生き方をしたい人もまたそうすれば良い。そのような生き方を選択する人の性別は男性・女性どちらでも構わないのだ。

結局、僕らは「世代的な」「国家的な」「ジェンダー的な」ものにかなり囚われている。そしてそれらはしばしば個人の生き方の足かせになってしまっていたり、自由な思考の妨げに(自覚していないとしても)なっていたりする。

完全な自由というのは人間にとってとても難しく、生きづらい。究極的な自由を人は望まないとしても、意識的に"囚われ"から外れてみようと意識することもまた面白いし、そこに新しい発見があるかもしれないなと思った。

もちろん、ここで書いた3つのことは各個人の考え方だとかによって、それは違う、おかしいと思う部分もあるだろう。それを排外的に認めないこともまた正しくないし、それも"囚われ"を作り上げる一つの要素になりかねない。みんながそれぞれ色々な考え方を持ちながら思考をぐるぐるさせるのが何よりも大切な気がする。