Prune.

好きなことを好きなだけ。

分かりあえないから

れ狂う季節のなかで、「ありがとさん」「ごくろうさん」といった言葉をつぶやく。

あらためて考えてみると不思議な言葉だ。日々の実践のなかで何気なくつぶやかれている言葉の尊さや、それが交感していくさまを想像すると、言葉の重みを感じる。

言葉で誰かと分かり合い、時には分かりあったつもりになり、その言葉の嘘に気づいて悲しくなり、婉曲的な言葉による真意を知って辛くなり、混じりけのない言葉の発音の美しさに感動したりもする。

言葉のなかで僕らは生かされ、また感情を揺り動かされている。

きらめきの中に浮かぶ言葉たちに色がつく。散々、あんなこと言っていたのに、最後もまた言葉で仲直りしたりする。

 

葉が揺らぐ。ゆらゆらと接続し、ゆらゆらと離脱し、するすると書き綴られる言葉を思い、それに生かされる自分を想像する。

いつかあのときに離された手を再びつかみ、すべての謎が解けたかのような顔をして、世界の多くの物事や、人の心の奥底を知ってみたい。結局は僕らが言葉で分かりあえない存在であることを知っているからこそ、そんなことを思うのだ。

そうしたら、きっと世界を分断するものも、自己と他者というテリトリーも、夢と現実という境界線も、正しさと過ちという二元論もきっとなくなってしまうだろう。そうしてそこに表れたものは、そうした言語的な二元論ではなく、もっと多元的で分散的で曖昧さを称揚するようなものになるのだろうと思う。

 

然に夜の海を思う。夜の海が好きだ。この深く、真っ黒な終わりのない海で、言葉の限界を超え、まだ見ぬ多元的で未分化なありようを見てみたいと強く思う。

ムーンライト銀河

ムーンライト銀河

東京の街が奏でる

日が楽しい、なんてことはない。毎日が楽しくて、楽しくて、仕方がないなんていう気持ちにはならない。

けれど、たまに楽しい、それこそ生きていて幸せだなあとふと思うことがある。

えば、それは東京の夜の街明かりを見たとき。名前も知らない人々がたくさん住んでいる大きなタワーマンションの灯りを見て、そこにも生活があり、それはずっと続いていくのだと考えるとしみじみする。マクロな世界のなかにある、ミクロな生活実践に思いを馳せる。

好きな人と終電後の街を歩いているときも楽しい。公共交通機関が止まり、眠りに入った街。静まり返った街はなんだか平生のしっかりとした、スーツを着たようなありさまとは異なり、どこか心を許してくれるような感じがする。心を許せる人と、心を許してくれる街を歩くのはとても楽しい。少しのお酒やアイスクリームがお供にあると、なお良い。このとき夏の暑さはエモく、冬の寒さは他人の存在を色濃くする。

美味しいワインに出会えた華金も素敵だ。ワインには当たり外れが大きい。開けた途端にダメだと気づいてしまうワインもあれば、開栓直後の香りで当たりを予感し、グラスに注ぎ、口に含んだときに花が開いたかのように幸せを感じられるものもある。そこに美味しい料理やおつまみがあれば文句はない。仕事終わりの金曜日は社会人になってから気づいた贅沢な、幸せな時間の一つだ。

お酒つながりでいえば、だいぶ酔っ払って友達と街を徘徊しているときも好きだ。酔っ払って見る街はまるでディズニーランドのようなテーマパーク感に溢れている。もちろん、ほどほどの飲酒であることが肝要だけど、素面では見れない街の姿にわくわくする。街路樹、信号、ネオン、それらが新鮮に映る。

朝帰りの朝に見る川や海なんかも好きだ。オールしたことで身体はくたくただ。しかし、朝日が昇ってくると、この街にまた朝が来たのだと実感する。ここでサカナクションの「朝の歌」を聞いたりすると、めっちゃエモい。

局、僕は街が好きなのかもしれない。ひいては「東京」が好きなのかもしれない。

そこに人や建物や、空気感や、お酒が絡んでいることは言うまでもない。しかし、それらを織りなす総体として街がある。まさに「東京の街が奏でる」のだ。

朝の歌

朝の歌

汚れた脚

っくりと沈み込んでいく。それは堕落の結末であり、怠惰の終末でもあった。

汚れた脚で失われたものやひとを追い求める姿を晒しながら生きていく、そんな退廃の日々のなかに光を照らしていく。

本当は何がしたいのだろう。本当はどうなりたいのだろう。本当は、本当は、そんなことを考えている間にも社会は変化し、周囲は変化し、見ている窓からの景色も変わる。

本当は、複雑なこと、大きなことなんてしたくないのだ。きっと。

ただ単に、もっと簡単な原則性、それを守るために、慈しむために、ありたいのだろう。

 

理性の海に、意味の沼、表象のカオスに、記号の錯乱。こういった社会を覆う大きな存在にNoという。本当はNoなんて言う勇気がない。けれど、Noというポーズを示す。

密やかに君は、そんな人間を見下し、格好悪いと思うかもしれない。

これが最後だから、これ以上悪いことはないから、悪いことはしないからという嘘を何度もつき、平気で弱い人々を騙す人の顔を見て、ここにも表象のカオスや、記号の錯乱はあると感じる。彼ら自身がそれを認識していなくても、それは共同体の静かな崩壊の予兆なのだ。

 

命という言葉をもっと信じたい。それ自体でどうにもならない、その言葉をもって、こうなるしかなかったのだ、こうなってしまったのは仕方がなかったのだと思いたい。堕ちていくのも、昇っていくのも運命。そう思うのは間違っていることではない。多分。

汚れた脚でも、僕らは歩いて、歩いて、歩いていく。散る花を見届けて、それでも歩く。

目標のためではない。合理性のためでもない。経済の繁栄のためでもない。執政者のためでももちろんない。そういう運動性のなかに身を置く社会的動物としてだ。

汚れた脚 The Silence of Innocence

汚れた脚 The Silence of Innocence