Prune.

好きなことを好きなだけ。

【短編小説】消失した「ある都会」をめぐる語り

あの光。摩天楼。神々しいネオンの灯り。「ある都会」について話して欲しいと頼んだとき、彼女はそんな言葉を口にした。ある都会―既に消失してしまい、今では空想の都市として語られている―はそれはもう素晴らしいところだったようだ。

不幸なことに、僕が生まれた頃にはもう既にそのある都会は消失してしまっていた。ある都会はまるでユートピアのような空間で、人々は笑い、お互いを思いやり、愛し合い、諍いなど起こることがなかった。極めて合理的かつ倫理的な執政がなされ、全員が幸せになるような仕組みが整えられていた。

彼女はある都会について語る。「私が昔暮らしていたある都会は、本当に輝いていたの。あなたは新宿や渋谷の光を今、イメージしているでしょう。光がたくさんあって、とても明るい。違うの。ある都会の光は、もっと美しく、繊細で、同じネオンでもそれらとは何処か違ったのよ。そこには神々しさがあったの。」

僕はそんなことを言われても、全くイメージができない。神々しさとは何だ。光が神々しい…わけがわからない。しかし、彼女は続ける。

「あの光があったから、私たちは健やかに、美しく生きることができた。今のような雑多な空間に身を投じなくても、みんながのびのびと生きていくことができた。暴力もなく、独占も起きなかった。すべてが平和的な環境だったの。」

ある都会は彼女にとって圧倒的な理想郷として語られる。その空間に生きた共同体の人々は健やかにそして美しく生きることができたのだという。

「誰も文句を言う人はいなかったし、誰も現状に不満など抱かなかった。全てが完璧に見えたの。」

ある都会は、完全なシステムをもって構築されていた。そこにはBig Brotherもいなければ、敵対すべき勢力もなかった。慈愛に満ち溢れた世界だった。

しかし、ここで僕は思う。本当にそこは素敵な世界だったのだろうか。本当に理想郷だったのだろうか。誰もが文句を言わない世界などあるのだろうか。そんな夢のような世界が。

ある都会は、ある日突然にして消失した。跡形もなく。そこに住んでいた1,000万人は突然に命を落とした。何の予告もなく、何の苦しみもなく。一瞬で全てが奪われた。

そんなある都会で唯一生き延びたのが、彼女だった。そう、残ったのは彼女一人だった。

ある都会は表面的にはとても美しい世界だった。何度も言ったように不満を表明する人は誰一人としていなかった。全員が幸せになるシステムが体系化されていた。しかし、それは膨張し続ける借金で成り立つ国家のように、いつか突然のbankruptを迎える。

平穏な街が、都市が、突然に消失する。隣のあの人も、向かいのあの人も、隣町のあの人も、今横切ったあの人も、みんな不満を抱いていない。幸せそうだ。

しかし、ある都会の内部にはふつふつと湧き出るような思いと怒りと苦しみが溢れていた。それらは美しく、幸せなユートピアという殻に覆われて、ことごとく隠蔽されていた。ある都会を神々しく輝かせていたあの光は、皮肉にも隠蔽されていた内部には決して光を照らさなかった。そこはいつでも灯り一つともることのない、暗闇だった。

どろどろと流れ落ちるマグマのようにそれは勢いよく都市を覆っていった。大量の火山灰が空を覆い、鮮やかな光に満ち溢れた空が一瞬で暗い灰色に染まってしまうような、あの恐ろしさと併せて。

ある都会は極めて理想的なユートピアだった。しかし、その静かな崩壊に気づけたものは彼女を含めて、誰もいない。ある都会こそ、爆発的な消失によって跡形もなくなったが、今もそのようなユートピアは形を変えて世界のどこかに存在しているという。美しき理想と、高尚な理念を掲げながら。

世代的な、国家的な、ジェンダー的な個

折に触れて自分について考えるとき、よく思うことがある。それは自分は主体的で自由な存在だと思っていても、そんなことは全くなくて、かなりの割合で外部の影響を受けまくっているということ。

タイトルで「世代的な、国家的な、ジェンダー的な個」と書いたけど、特にこれら3つに自分を含めた社会の人々は囚われていると感じる。圧倒的な囚われの身であることに自覚的になることはあまり幸せには思えなくて、むしろそういう囚われに"囚われることなく"無自覚であること、あるいは、認めないという態度を取るほうが幸せな気がする。

ただ、気づいたことがあるのでとりあえず備忘録的に書いておきたい。

まず一つ目の「世代的な」要素について。これはいわゆる、「ゆとり世代」とか「団塊の世代」とか「平成生まれ」とかそういうやつだ。音楽でも文学でも何でもそうだけれど、この世の中は極めて細分化されていて、誰もがカテゴライズをしたがる。

だから、やれ90年代はこうだった、でも00年代はこうだとか、ゆとり世代は学力がとか思考が…とか色々と言われる。

僕たちはこの「世代的」なやつにいつでも追い掛け回されるのだ。それはメディアによって増幅され、本当に世代的な差異があるのかどうかも明確ではないまま、差異があるという物語が創造される。そして、そこに分断/溝が発生する。

平成世代 VS 昭和世代だとか、ほとんどメディアが作為的に作り出した対立構造なんじゃないかと思ったりするんだけど、実際のところどうなんだろうか。過度のカテゴライズは分断を拡大させるだけなような気もする。

次に二つ目の「国家的」な要素について。これはよく聞く「日本的な」とか「アメリカ的な」とかそういうやつだ。国家を一つの柱として、色々なものを区分する。これは海外に行けば否応なく分かるけれど、やはりどの国にも国民性というものはあって、たしかに「日本的」だなあとか「アメリカ的」だなあと思う事柄は存在する。

ただ、だからといって「大人しく礼儀正しい」イメージの日本の人々が、仰々しく無礼にしてはいけないということもないし、「分からないことでも分かる素振りを見せることが良しとされる」アメリカの人々が、分からないことを分からないと正直に言うこともまた咎められることではないと思う。

もちろんその国々の良いイメージというものは大切にするべきだろう。日本人の礼儀正しさやおもてなしの精神といったイメージは当然評価されて然るべきものだ。しかし、そのイメージによって個人の思考まで抑圧されてしまったら、決してそれは社会全体として見たとき良い結果をもたらさないような気がする。みんな違ってみんな良いし、色々な人がいるから社会は繁栄するのだ。

最後に「ジェンダー的」な要素について。これはつまり「男だから」「女だから」というイメージのことだ。「男の子だから強気でいなさい」だとか「女の子だからお淑やかでいなさい」という性別による囚われだ。近年この傾向は弱まってきているように思うけれど、今でも「男の子/女の子」だからこうしなさい、こうすべきというジェンダーのステレオタイプに沿った思考は抜け切れていないと思う。

でも考えてみれば、別に男の子だから強気であるわけでもないし、女の子だからお淑やかであるというのもおかしな話だ。ナイーブな男の子もいれば、勝ち気な女の子だって当然いるだろう。本来、二者択一的な性別で個人の生き方や思考を分断することはできないのだ。俗に言う「男らしい」生き方をしたい人はそうすれば良いだろうし、「女らしい」生き方をしたい人もまたそうすれば良い。そのような生き方を選択する人の性別は男性・女性どちらでも構わないのだ。

結局、僕らは「世代的な」「国家的な」「ジェンダー的な」ものにかなり囚われている。そしてそれらはしばしば個人の生き方の足かせになってしまっていたり、自由な思考の妨げに(自覚していないとしても)なっていたりする。

完全な自由というのは人間にとってとても難しく、生きづらい。究極的な自由を人は望まないとしても、意識的に"囚われ"から外れてみようと意識することもまた面白いし、そこに新しい発見があるかもしれないなと思った。

もちろん、ここで書いた3つのことは各個人の考え方だとかによって、それは違う、おかしいと思う部分もあるだろう。それを排外的に認めないこともまた正しくないし、それも"囚われ"を作り上げる一つの要素になりかねない。みんながそれぞれ色々な考え方を持ちながら思考をぐるぐるさせるのが何よりも大切な気がする。

On the way back home,

I was on the way back home. Many cars come and come, some bicycles go somewhere with a very high speed.
At that time, I was listening to"My Red Shoes Story" by Flipper's Guitar as a very high volume. Oyamada sings "I make up my mind!" Oh, he already made up my mind...How good!

But I was still in a way that difficult to see a front even in a 10m ahead from me! If I didn't find this kind of artists, I could live more easily! But I am also thinking that if I didn't meet them, my life turned into more boring. Is it good? Do I wanna live like that?
No, No, No!
Yeah, I am satisfied now!

But...sometimes I can't help thinking like that.
Then, one woman overtook me. She was also listening to something like me. Her world was an inviolability. But if she was listening to songs of Flipper's guitar? This big city is very cold therefore nobody wanna communicate with someone. This city is almost broken but we can't escape cause if escaping, there's no way to get money...

This big society would tell us, "How you're solitude." and also "How you're sweet and beautiful." like the carrot and the stick...
You can't get to know them naturally cause this city and people in this city are always pretending like an outsider... You have to find and digest them by yourself.

<<Appearing end credits with the song "Blue Shinin' Quick Star"... > >

まったく教訓も物語性もない話だけど、なんとなく書いていたら出来上がった。

音楽とか文学とかそういうものとの出会いについて。その好きな音楽を隣の人が聴いていても、知ることができないことについて。自分で折り合いをつけなければいけないことについて。そんなことについて適当に書いた。

いつものように日本語で書くと、思い通りに書けるがために屈折した文章になってしまうと思ったから、今回は英語で書いてみた。語彙とかいろんな都合で書けることが必然的に簡素になるから、ややこしくならずに書けた気がする。

SINGLES

SINGLES

  • FLIPPER'S GUITAR
  • ロック
  • ¥2200
CAMERA TALK

CAMERA TALK

  • FLIPPER'S GUITAR
  • J-Pop
  • ¥1800