Prune.

好きなことを好きなだけ。

正論的な、余りに正論的な

この夜中に去年急逝した、雨宮まみさんの著書を読んでいた。

まじめに生きるって損ですか?

まじめに生きるって損ですか?

 

「まじめに生きるって損ですか?」というタイトルの本。ずっと前に友達に薦められて買った本なんだけど、途中までしか読んでいなくてまた再開。はじめに読んだときは、正直微妙だなあと思ったりしてたんだけど、今読み返すとすごく良い。

やっぱり本に対する感情は、そのときの自分の気分や状況によって大きく変化するんだと思う。そう考えると、Amazonのレビューが仮に星2つとかだったとしても、その本は自分にとっては星5つだったりするのかもしれない。誰かの勝手なレーティングに気持ちが揺らいでしまう自分。

みんなが良くないって言ってるから―。誰でもみんな「誰か他人」の意見を切実に求めている気がした。

読んでいるなかで気になったのが「最近は正論がとにかく大事にされる」というお話。何か間違っていたり、やけに感情的になっていると、簡単に論破されたりする時代だ。

たしかに論理は大事だと思う。感情論だけで語ることにも限界はあるかもしれない。

けれど「辛い」とか「嫌だ」に理由なんてあるんだろうか。「嫌だから嫌」なのであって、そこに明確な理由を求める姿勢や明確な理由を付与する必要性はないんじゃないかな。

ロジックを越えた先にある「辛い」とか「嫌だ」とかそういう感情までロジックで解釈して、それがロジカルじゃないから否定することは自然に反している気がする。

動物であることを超越しようとすることは大きな試みだと思う。人間は理性的な生きものだから。けれど、それでも人間は動物であることを誰が否定できるのだろう。

心に寄り添う、心に向き合うということは、正論を戦わせることではないと僕は思う。正論は大事だ。けれど、それは常にあらゆるシーンで使われるべきものではないし、ときには原始的な感情にしっかり向き合うことが大切なんじゃないかな。

雨宮さんの本は、こういう心の深い奥を刺激する。普段は覆われていて気づかないようなところがひりひりする。そしていろいろ考える。思う。そんな内奥まで迫ってくる文章を書いてきた雨宮さんはとても素敵な人だったに違いない。

いつのまにか眠ってしまって起きたら2時だったりするそんな夜に

いつのまにかベッドの上で眠ってしまって起きたら2時だったりした。夜から夜へ。変わらない時間の中を移動するような感覚。朝目を覚ますのとは違うこの感覚。何かの始まりが見えない、どこまでも水平線上で代わり映えのないような現状を傍観するような気持ち。夜から夜への移動はそんな感覚だ。

「いつのまにか眠ってしまって起きたら2時だったりするそんな夜に」は、音楽を聴く。あるいは本を読む。マンガを読む。今日だったら、ブログを書く。ちょっと最近好きなものについて書いてみる。誰かが面白いと思って読んでくれたら、こんなに嬉しいことはない。結局、誰かに読んでもらいたくて書いていたりする。

YUKI」の音楽とポジティブへの羨望

最近(元JUDY AND MARYの)YUKIの楽曲を聴くようになった。今までYUKIといえば、2014年にリリースされた「FLY」のアルバムに入っていた数曲を聴くくらいだったんだけど、最近しっかりと聴き始めた。それで今の気持ちは「あれ、なんでこんなに良い曲今まで聴いてこなかったんだろう。」っていう。YUKIの音楽をたくさん聴きながら、歌詞を読んだり、YUKIのラジオを聴いてみたりした。そこで分かったのは「ああ、YUKIっていう人はネガティブで苦しいことの意味を知りながらも、ポジティブに生きている人なんだな。」ということだった。

僕はポジティブな人には2種類いると思っている。1つは、辛いことや苦しいこと、酷いことから目を背けてポジティブになっている人。つまり現実を直視することを拒否して、楽しさだけ掴み取ろうとしている人だ。もう1つは、そういう苦しみや辛さに正面から向き合いつつも、ポジティブであることを選択している人だ。

僕はYUKIは後者の人なのではないかと思う。彼女の言葉とか、音楽からはそういう空気感がすごく伝わってくるように感じる。

後者の形のポジティブで生きることってすごく難しいし、大変なことなのだと思う。いうならば「酸いも甘いも噛み分ける」っていうことなんだから。

僕自身は結構ネガティブな方なので(昔からそうだったかなと思うとたしかにそうだったような気もするし、でも最近その傾向はさらに強まっているような気もする)そういう意味でポジティブな人にはすごく憧れがある。だからYUKIのような生き方とか考え方がしたいなと思う。そして多分、それは人生とか自然に対する肯定だし、他者に対する全肯定に繋がっていくような気がする。

YUKIって、今45歳なのに僕はすごく若いし、可愛いし、素敵だなと思うんだけど、おそらくそれは彼女自身が辛いことがあってもそれを受け入れた上で前に進もうとするポジティブさをもった人だし、同じくらいいろいろなことにひたむきで一生懸命な人だからではないか。内面からの美しさとか綺麗さというのが本当にあるのかどうかは分からないけれど、もしそれがあるとするならばYUKIはそういう人なんじゃないかな。

そんなこんなで今一番したいことは、YUKIのライブに行くこと。今年の前半にアルバムツアーがあったみたいで、もっと早く聴き始めていれば良かったなと思うんだけれど仕方がない。次のチャンスを狙うしかないね。

YUKIで特に好きになった曲をいくつか貼っておくことにする。備忘録的に。 

「66db」

▲一聴したときにBaths的な雰囲気を感じた。多分、このミニマルな感じと電子音の所為だと思う。ミニマルな分、YUKIの綺麗な歌声が際立つ。歌詞も視点というか世の中の見方が素敵だと思う。 

「波乗り500マイル(feat. KAKATO)」

▲前の「66db」とは対照的にとてもポップなトラック。MVを見たときに思わずTOKYO HEALTH CLUBのアレかよって思ったけど。いや、YUKI元気だなあ…笑

「うれしくって抱き合うよ」

▲これは歌詞が肝だと思う。よく読みながら考えると、ああ多分そういうことを歌ってるんだなって思うんだけど、すごく根源的なところを言語化していると感じる。「うれしくって抱き合うよ」っていうタイトルがまさにその原初だし。僕と君を繋いだ「ハレルヤ」っていう合言葉もなんだか良い。

岡崎京子」が描いてきたもの

YUKIとならんで最近気に入っているのが「岡崎京子」の作品だ。岡崎京子は、90年代を代表する漫画家。僕が好きなミュージシャンの小沢健二と親交があり、それをきっかけとして読むようになった。彼女は人気絶頂の1996年にひき逃げに遭い、その事故によってそれ以降作品を描けなくなった。今でもリハビリ中ということで、以降表舞台で目にする機会は無くなってしまったのだけれど、それでも彼女の描いた作品は今日でも色褪せない圧倒的な存在感を発揮していると僕は思う。

岡崎京子の漫画は、文学的であったり映画的であったりするといわれている。それはカットの仕方であったり、取り上げるテーマと感情表現の巧みさが理由だと思う。

例えば彼女は「pink」で「愛と資本主義」を「リバーズ・エッジ」で「愛と暴力とセックス」を描いている。それは在り来りなテーマであるかもしれない。けれど、それを巧みに描く能力について彼女は秀でている。やはり作品に漂う空気感は90年代の空虚感であったりして10年代の今とは違ったりするんだけれど、それを含めてよくできた「世界観」だ。

岡崎京子については、まだほんの少ししか読んでいないのでこれから色々読んでいって、もっと語れるようになったらここで書こうと思う。「岡崎京子について語るとき僕の語ること」というタイトルになったりして。

「東京」を眺める、あるいは、東京の街が(人と)奏でる

最近東京タワーとか高層ビル群を見る機会がたくさんある。高層ビルの真下の道路にたくさんの車が連なり、渋滞している。巨大な高層マンション、誰が住んでいるのか分からないけれどそこで生きる人たち、そしてそこにある家庭を想像する。暗い夜の街のなかでぽつぽつと光る建物を見て、ああ、あそこにも人がいるんだなと思ったりする。

地方出身の僕にとって「東京」は大都市だからこそ、人の姿とか他者を多分に感じさせる場所だと思う。高層ビルの上から「東京」を眺めたとき、そこにはどこまでも続くように見える(見せてくれる)水平線があって、この巨大な都市で僕が出逢える人とか仲良くなる人、好きになる人はとっても限られていると思ったりする。誰かと誰かが出逢って、都市で時間を共にしていくことはすごく奇跡的なことだし、そこで滞りなく人々が暮らしていけること、あるいは、生活を育んでいけるということはとても大事だし、愛でるべきことではないか。

「東京の街が奏でる」という言葉に一言足して「東京の街が(人と)奏でる」と書いてみた。システマティックに見える街は、やっぱり人を欲していて、東京の街が綺麗に見えるのは人がいるからだと思った。

僕が「東京」を眺めるたびにそれは違った景色を僕に見せる。気分屋の猫みたいに。でもそんな気分屋なところがなかったら多分僕は飽きてしまう。気分屋の猫みたいな街、東京。

言葉で伝える / 伝わるということ

この人はどんな風景を見たのだろう、だとか、この人はどんな思いをしたのだろうと思う。目の前で向かい合って話を聞いていても、言葉から伝えられるその風景や思いは、リアリティを欠く。むしろ純度の高いリアリティを求める姿勢自体が間違いなのかもしれない。

言葉から構築される風景や思いは、僕が作り上げるものだからだ。

例えば、沖縄で見た美しい風景について僕に話してくれる人がいたとして、その言葉から僕が想像する風景は僕の過去の経験に依存する。

僕が沖縄に行ったことがあれば、それは過去の僕が沖縄で見た景色と限りなく近いものになるかもしれないし、逆に沖縄に行ったことがなければテレビ越しで見た括弧付きの「沖縄」を思い浮かべるかもしれない。

言葉で何かを正確に伝えることには限界がある。相手の言葉から思い浮かべたそれは、僕が作り上げる想像の産物でしかない。

だけれど、僕はそれがとても悔しいと思う時がある。

全力の想像力をもってしても、僕は今向かい合っているその人が見たであろう美しい景色や思いを100%で受け取ることはできない。その人がどんなに僕にその美しさを伝えようとしても、それは正確には届かない。その人が感じた美しさは、その人の感性が引き起こした美しさであって、僕の感性が引き起こす美しさとは違うからだ。

距離は近くても、どんなに相手の心を知ったつもりになっていても、それは他者でしかあり得ず、どんなに万能な言葉を使い、的確に表現しても、デコーディングには限界があって100%は伝わりきらない。

そんなことを思うと、ちょっと悔しい。いやとても悔しい。同じものを共有しているつもりが、どこか別々のほうを向いているような、そんな感じがするから。