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Prune.

好きなことを好きなだけ。

大森靖子は本当にメンヘラなのか

激情派シンガーソングライターとして知られる大森靖子

彼女のつくる楽曲の歌詞やライブでのパフォーマンスなどから、メンヘラアーティストと認知されることも多いが、果たして大森靖子は本当にメンヘラなのだろうか。

僕はむしろ彼女は冷静に自分を見ることができる人なのではないかと思う。

たしかに彼女の歌詞はメンヘラ好みの病んでます感満載なものが多いが、それが真に彼女がメンヘラであるという証明にはならない。

"戦略的メンヘラ"という言葉があるのなら、彼女はまさしくそれなのではないかと思うのだ。ストラテジックにメンヘラをくすぐる唄をつくることができる。それこそ大森靖子の真髄なのではないか。

これは彼女を蔑んだり、彼女を批判する意味ではない。ただ好き勝手に自分の境遇の辛さを吐露して、私はかわいそうと言っているメンヘラと比べて、彼女はどうだろうか。人間誰しも持っている辛さや弱さを彼女は隠すことなく、臆することなく曝け出している。そう、むしろ彼女はメンヘラの代弁者とすら言える。

メンヘラという言葉にはネガティブイメージが付きまとっている。自分勝手で病んでいる、社会性がない…などなど。初見なら大森靖子はやはりメンヘラ以外の何者にも見えないかもしれない。だって、そんな歌詞ばかり書いているからだ。しかしある程度彼女の唄、そして歌詞に触れていくと彼女自身はメンヘラなどではないと気づくだろう。

誰しも持ちうるメンヘラ的な要素を惜しげなく取り入れ、それを楽曲にしているのだ。しかもそれは単なる諦念に留まることを知らず、苦しいこと、嫌なことはあるけれどそれを受け入れるという強さを彼女は呈示している。

苦しい、もう駄目だ、無理。がメンヘラの思考だとしたら、大森靖子は途中まで同じだとしても最後はそれを受け入れる強さを見せてくれるのだ。

これこそ、大森靖子がメンヘラではない理由とも言える。現実をただただ否定するだけの歌詞なら、それはただ苦しみをみんなにばら撒いているに同じだ。苦しみが広がったところで何の意味もない。

しかし、彼女はその苦しみを多くのメンヘラたちの代弁者として歌詞に昇華し、それを歌い上げる。しかも強さを加えた上で。

メンヘラという言葉をネットでも実生活でもよく聞くようになったのはここ数年のことだと思う。ただ弱い人、自分勝手なメンヘラを揶揄するのは簡単だが、そういう言葉がはびこっている背景を考えると、他人事には思えない。

みんな誰しも辛いことはあるはずだ。365日が楽しくてたまらない人など絶対にいない。そんな苦しいときにこそ、大森靖子の唄は親身に寄り添ってくれるはずだ。

 

※ちなみに大森靖子の楽曲には"音楽を捨てよ、そして音楽へ"というものがあるが、これは寺山修司の書籍タイトルをもじったのかな…なんて思ってしまう。

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

 

かけがえのないマグマ  大森靖子激白

かけがえのないマグマ 大森靖子激白

 

 ※新宿というと、真っ先に新宿系でお馴染みの椎名林檎のことを考えてしまう。同じような楽曲を作っていることから、大森靖子椎名林檎のパクリという声も少なからずある。僕自身は楽曲的には全く違う方向だと思っているけれど。

ただ最新作に入っている某楽曲は明らかに椎名林檎 or 東京事変を意図的にパクっている(笑) インディーの頃のアートワークを見ても椎名林檎を意図的に良い意味でパクってきたのは事実だろう。

それにしても最近の椎名林檎はアーバンさが半端無い。(長く短い祭とかめちゃくちゃお洒落なトラックだ。ただMVはなかなかにサディスティックで怖い。丸の内サディスティックを作っただけはある。)