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"夜更かし"するならこんな音楽と: 秋の夜長に聴きたい音楽をサクッと紹介してみた

突然ブログ記事を書きたくなってしまったので、簡単にまとめてみました。

もう11月になってしまったけれど、秋から冬に移り変わっていくこの時期は何といっても「夜更かし」が醍醐味。音楽を聴いたり、本を読んだり、自由な時間はなんて楽しいのだろうと痛感させられる今日この頃です。

今日はそんな秋の夜長に聴きたい音楽をいくつかピックアップ。説明は一切ありませんが、適当に聴いてみてお気に入りの1曲が見つかったら何よりです。夜なので、グルーブ系とジャズ系を中心にしてみました。邦楽、洋楽問わず夜更かししながら、楽しい音楽の時間を。

▼そういえば、もうすぐ「ラブリーサマーちゃん」がメジャーデビューアルバムをリリースします。全曲試聴ができるビデオが上がっていたのでぜひ一聴あれ。楽しみ。

前に書いたラブサマちゃんの記事もあるのでこちらも合わせて。

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"方言"の魔力と図書館体験: 早稲田で芥川賞作家「綿矢りさ」を見てきた話

10月21日は早稲田大学創立記念日だったようだ。と言っても僕は早大生でもなんでもないので普段なら縁もゆかりもないのだが今回は違った。

芥川賞を当時最年少である19歳(僕と同い年だ)で受賞された作家、綿矢りささんと、同じく芥川賞を受賞され、その後も谷崎潤一郎賞など数々の受賞歴を誇り早稲田で現在教鞭も執られている堀江敏幸さんの講演会があったのだ。

僕は高校時代に綿矢さんの「蹴りたい背中」を読んだのがきっかけで今ではすっかりファンだ。新作が出た時はすぐに買うようにしているし、綿矢さんの作品も有名なものはだいたい読んだ。と言っても綿矢さんは執筆年数に対して作品数がそれほど多くないから集めるのはさほど難しいことではない。

そういえば高校時代に書いた「蹴りたい背中」の作品解釈について以前ブログ記事にしているので、もし良かったらこの記事の下へ進む前に一読してもらえると嬉しい。

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綿矢りさと言えば、芥川賞を19歳で取るという天才的な才能に加え、とても美人な方なので、そういう意味でも当時ブーム的に綿矢さんの作品を買ってみたという方も多かったのではないかと思う。実際今日はじめてお目にかかることができたのだが、やはり美人な方で関西弁のアクセントがとても可愛らしく感じられた。

この方言というのは実に奇妙で、魔力を持つものだ。特に関西弁の魔力は怖い。恐ろしい。男性が使えば、陽気でムードメーカーの雰囲気を醸し出させるし、女性が使えば可愛らしく、言語感覚を彩る一つの武器になる。"ことば"の力は力というより魔力なのだ。そしてこの関西弁というのが今回の綿矢さんの最新作「手のひらの京」と大きく繋がり合っている。綿矢版「細雪」というキャッチの帯が付けられていたが、本作は関西弁。京都を舞台に3人姉妹の生活が描かれる。谷崎オマージュと言ったところか。

手のひらの京

手のひらの京

 

谷崎は関東大震災後東京を離れ、その後関西を気に入ったというが、谷崎が関西を気に入った理由にもきっと関西弁という方言の魔力があったに違いない。可愛い子がもっと可愛く思えてくる魔法のようなものが方言なのではないか。性別に限らず"方言が好き"という声は少なからず聞こえてくる。方言は人々の言語感覚をくすぐり、弄ぶのだ。ああ、やっぱり魔力。

さて話は戻るが今回の講演会のタイトルは「私と図書館」だった。堀江教授が自分自身の早大生時代の思い出を語りながらも、綿矢さんに質問をしていくようなスタイルで講演は進められていった。

ここでいくつか面白かったお話をピックアップ。

まず1つ気になったのは、本を読むときの感覚の違いというお話。図書館で本を読むときと家で一人で本を読むときの感覚はどう違うだろうという話題だ。

綿矢さんは、図書館で本を読むと周囲の音なども文に影響してくるといった趣旨のお話をされていたが、これは僕もかなり同意したいところだ。

一人で静寂の中、部屋でぽつりと本を読む。対して、大勢の人がいるところで周囲の環境音を耳にしながら読書する。同じ本、同じ文字を読んでいても、そこで発生する読書体験は全く異なるに違いない。文こそ、どこで読んでも同じだがある意味で文は生きていると僕は思う。文は不変的な存在ではなく、限りなく可変的な存在だと思うのだ。もちろん文字のキャラクターは変わらない。しかし、その文がもたらす感情であるとか、文が想起させるイメージというのは周囲の環境に大きく影響され得るのではないか。それがどう違うとは僕も上手く説明できないが、読書体験は明らかにその空間によって変化する。

2つ目に気になったのは、全集を読むことの重要性について。

これは堀江教授が熱弁されていたことなのだが、好きな作家の全集を読むことがその人のリテラシーの土壌になるという趣旨のことを仰られていた。例えば単行本だと年代に連続性がなく、飛び飛びの年代で作品が構成されることがある。しかし全集の場合、編年で構成されているのでページをはじめから最後まで読むとその作家の人生を追うようにその時代と作家の年齢を意識して読書をすることができる。これが大きなメリットだと言うのだ。ある意味これはアカデミズムだと言えるのかもしれないが、全集を読破し一つの作家のストーリーを体得することで、その作家の文体であるとかエッセンスを自分の糧にすることができるのではないか。

綿矢さんは太宰好きでも知られているが、学生時代に太宰の全集を読破したという。僕自身も感じることではあるが、綿矢文体はよくよく考えてみると太宰文体(あるいは太宰節)に似ているところがある。体言止めの小気味よさであるとか、芥川賞を受賞した「蹴りたい背中」の冒頭にある「オオカナダモ、ハッ?っていうこのスタンス。」という話題になった主人公のセリフであるとか。この歯切れの良さはある種の太宰節の影響を受けていると言っても過言ではないのではないか。

しかし、このような太宰のエッセンスを綿矢さんが体得できたのもこの全集読破のおかげなのかもしれない。これをピックアップ的に抽出していれば(これは学問の場で言われるインターネットの功罪でもある。検索で調べれば簡単に問題の答えを得ることができるが、それは部分的なピックアップに過ぎず物事の本質にはたどり着けないというインターネットの構造ゆえの問題点。これに対し本は包括的に知識を体得できるとされる。)決して得られなかったものなのかもしれない。

3つ目に気になったのは、図書館体験について。

綿矢さんは学生時代からたくさん図書館に通われていたとのことだったが、図書館の本の感覚についてお話されていたのが興味深かった。

綿矢さんは図書館の本は油っぽくて図書館の匂いがすると仰っていた。たしかに。油っぽいというのはたくさんの人が読んだ本なら顕著だし、図書館の匂いというのもよく分かる。書店、とりわけ古本屋にも本の匂いというものが染み付いていたりするが、図書館も負けず劣らずだ。海外の書籍と日本の書籍だとインクも違うから、匂いが全く違うというお話も堀江教授からあったが、本の匂いだとか本の手触りというのは読書体験に大きく影響する。

LPレコードを収集されている方なども同じように共感できるかもしれないが、本もただ中身(コンテンツ)を楽しめれば良いというものではない。カバーやページをめくる感覚など様々な総合的要素をもって読書体験を形作っているのだ。だから、油っぽくて図書館の匂いがする本という綿矢さんの感覚は今までの豊富な読書体験があったからこそ得られるものだろうし、その感覚を大事にすることが読書をいっそう価値あるものにしてくれるような気がする。

まだまだ書きたいことはあるが、はじめてお目にかかることができた綿矢りささんは本当に素敵で、感性豊かで物腰が柔らかそうな方だった。

自分の好きな作家と会えるというのはかなり貴重な経験だ。芸能人ではないからテレビなどでお見かけすることも少ない。だからこそ、こういう場で何かを得るというよりその空間を共有できたということに大きな意義があるのではないか。そう思えた、幸せな1日だった。

待望の最新作をどう聴く: 宇多田ヒカル「Fantôme」の歌詞を解釈してみた

長期の"人間活動"期間を経て待望のニューアルバム「Fantôme」をリリースした宇多田ヒカル

以前の宇多田ヒカルと比べるとだいぶ落ち着いた雰囲気を感じさせるけれど、今回のアルバムでも彼女の芯の強さ、表現することへの強い意志は決して劣化していない。いや、その深度はさらに増していると言っても過言ではないのだ。

今日はそんなニューアルバム「Fantôme」から「道」椎名林檎とフィーチャリングした「二時間だけのバカンス」をピックアップしてその歌詞の解釈をしてみたい。

  • 1曲目「道」の解釈

まず前提としてこの楽曲は亡くなった宇多田ヒカルの母である、藤圭子に向けて書かれたと取るのが妥当だろう。宇多田が音楽業界で生きていくことを決意した背景には明らかに歌手であった母、藤圭子の影響があったことだろう。しかし、母は突如としてマンションから飛び降り自殺。帰らぬ人となる。

サビで宇多田はこう歌っている。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も 一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった

It's a lonely road But I'm not alone そんな気分

ここでいうあなたとは、まさしく母、藤圭子のことではないか。一人の道でさえ、母の助けがあったから一人ではなかったと宇多田は綴っているのだ。

目に見えるものだけを 信じてはいけないよ

人生の岐路に立つ標識は 在りゃせぬ

宇多田は存在し目に見えるものだけを信じるべきではない、人生の分かれ道でどちらに行けば良いと指図してくれるものはないと歌う。このあたりからは、宇多田はあくまで自分自身の意志による選択をしながらも、その後ろではその選択を見守ってくれる母の存在があり、それはとても宇多田にとって心強いものだったのではないかと思える。

目に見えるものだけを信じてはいけないという言葉にはとても重みがある。僕らは目の前にあるもの、答えがあるもの、唯一の解だけを追い求めようとするが、本来それらが正しい保証などあってないようなものだ。そもそも僕らは不確実性のもとになんとか立ち、毎日を過ごしているのではないか。例えば、愛情や友情とは不確かな気持ちのことだ。多くの人たちが軋轢を生みながらもなんとか維持できているのも、それらの不確かな存在、あってのもの。物質的な存在、即物的な存在は不確実性のもとではあまりに脆く、頼りないものだ。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も どこへ続くかまだ分からぬ道でも

きっとそこにあなたがいる

It's a lonely road But I'm not alone そんな気分

最後の締めの部分だ。亡くなってこの世から母が消えてしまっても、この先の私の未来にはきっとあなた(=母)がいると宇多田は言う。そして紛れもなくこの先の私の未来とは本曲のタイトルでもある「道」のことであり、母はいつまでも私を見てくれているだろうと宇多田は歌うのだ。

一つの歌を通して考えてみると、中盤で説明した「目に見えるもの」とは母という存在が持つ身体のことなのかもしれない。つまり心身二元論ではないが、母の身は消えてなくなってしまっても、宇多田を支えてくれた母の心は決して消えることがないということを宇多田は言いたいのではないか。母の心は当然、目に見えるものではない。でも、いつでも宇多田の一人の道を見守ってくれた母とはその身体ではなく、優しい親としての心だったのではないだろうか。

  •  4曲目「二時間だけのバカンス」の解釈

友人である椎名林檎とフィーチャリングしたこの楽曲は「道」と比べると解釈が少し難しい。というのも一人称が安定しないからだ。僕と私。2つの一人称が一つの楽曲内で使われている。宇多田は以前から僕という一人称をしばしば使ってきたので、僕だからと言って男性目線だと断定することはできない。ただ、一人称を多重的に使うことで男性→女性、女性→男性、はたまた同性間と歌詞から想定される対人関係をあえて限定させないようにしているのかもしれない。

それにしても全体的にこの曲から漂うのは「不倫」の危ない匂い。ある種のアバンチュール(Aventure)だとも言えるかもしれない。

朝昼晩とがんばる わたしたちのエスケープ

思い立ったが吉日 今すぐに連れて行って

二時間だけのバカンス 渚の手前でランデブー

足りないくらいでいいんです楽しみは少しずつ

サビの歌詞は上の通り。お互い忙しくしており長いランデブー(フランス語でデートの意味)はできないが、それくらいがちょうどよいと宇多田は歌う。

優しい日常愛しているけれど

スリルが私を求める

このあたりの歌詞から、ああこの関係は不倫なんじゃないかと多くの人は感づきはじめるだろう。相手がいてその相手との日常に何の不満もないけれど、スリルに掻き立てられて不倫をしてしまうと椎名は歌う。

ここで少し考えたいのは理性と本能、規範と欲望はどちらが先にくるのかということだ。不倫は社会として「いいですね、問題ないですね。」とはなかなか言いにくいことだ。ただそれが理性や規範だとしたら、不倫をしてしまうという心理はある種の本能と欲望の至るところだ。つまり不倫がダメだとされるのは、社会のなかでつくられた道徳がそれを許さないからだ。だから、人が社会システムや対人的なしがらみから完全に開放されたとき、それでも不倫をしないかと言われればだいぶ疑わしいのではないか。あくまで社会規範の中に存在する制度としての「不倫という悪」なのではないだろうか。

家族のためにがんばる 君を盗んでドライブ

全ては僕のせいです わがままに付き合って

二時間だけのバカンス いつもいいとこで終わる

欲張りは身を滅ぼす 教えてよ、次はいつ?

2番目のサビの歌詞。「家族のためにがんばる 君を盗んでドライブ」「全ては僕のせいです」という歌詞。一人称が私から僕に変わってしまった。これを性別の変化と捉えるか、かなり難しいところだ。ただ「家族のためにがんばる」という歌詞から推測するに男性の可能性が高いのではないか。1番目は歌詞の雰囲気、冒頭の歌詞から推測するに女性と考えられるが、2番目はどうも違うようだ。

「欲張りは身を滅ぼす 教えてよ、次はいつ?」という歌詞からは、いずれこの関係が身を滅ぼす可能性を孕んでいるにも関わらず、次はいつと関係を続けようとする様子が伺える。これが前に書いたように、不倫の道徳的罪悪感と本能としての欲望の葛藤なのだろう。人間思っているほど強くもないし、欲望に負けてしまうのは誰しも同じなのかもしれない。

今日は授業サボって 二人きりで公園行こう

もしかしたら一生忘れられない笑顔僕に向けて

このあたりでさらに歌詞は難しくなっていく。「授業サボって 二人きりで公園行こう」の歌詞は素直に考えれば学生の関係を指している。1番で既婚女性の不倫、2番で既婚男性の不倫、そしてここで学生の不倫?を歌っているとすれば、この歌はかなり複雑だ。

ただ、ここで「授業サボって 二人きりで公園行こう」という歌詞を額面通りに受け取るべきかどうか。一つの隠喩表現だと考えることもできそうだ。

そう言えば、ゲスの極み乙女。のボーカル、川谷絵音ベッキーと不倫関係のときに離婚届を卒論と暗喩していたが、これは悪い例えだとしても何か茶化して授業サボるという言葉を使っているのかもしれない。

不倫に漂うグレーな香りも、授業サボって二人きりで公園と来ればなんだかとても爽やかな青春の1コマにさえ思えてくれるから言葉は不思議で実にやり手だ。

結局僕としては明確なこの曲の解釈ができなかったが、不倫関係を題材としていることは間違いないのではないか。ただその不倫も黒い部分を取り上げるのではなく、アバンチュールとしての難しい部分を甘美に描いている。やはりこのあたりは宇多田ヒカル、才能の塊だと思わざるを得ない。

考えれば考えるほどハマってしまう宇多田ヒカルの歌詞。人間活動を経てさらに人間味を増した宇多田のニューアルバム「Fantôme」― ぜひ一人でも多くの人に聴いてもらいたい。

 

Fantôme

Fantôme