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綿矢りさ「蹴りたい背中」をどう読むか

高校時代に書いた綿矢りさ蹴りたい背中」の書評があったので一部変更して転載。この頃から相変わらず暇だったんだなと(笑)

読書したあとに解説とか、みんなのレビューのようなものを読むのがすごく好きで、今もよく読むんだけど、最近はこんな感じで書評をがっつり書く機会はめっきり減ってしまった。

たくさん書くと、読後感が良くなる気がするので今度また書いてみようかなと。意外と書評(読書メモ)を書くのは楽しかったりします。しっかり読もうっていう気持ちにもなるし。

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蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

 

 

幼い、にな川が溺愛しているOliちゃんは、長谷川にとっても鮮烈な存在であった。それは、今の彼女の惨状を見れば分かるだろう。

友達から離れ、思春期特有の自分は他人と交わって楽しもう、愛想を繕って友達関係を維持しよう、なんていう子どもくさい、面倒くさいことはしたくないと思っている長谷川。

それを上手にこなしている絹代が理解出来ない、いつまで中学生の頃のままなのだろう…と落胆する素振りを見せるが、実はそれも思春期特有の裏返りの感情であって、そう思いつつも上手に学校生活を送っていける絹代を羨ましく思う感情も共存する。

と同時に、こんな難しい感情を抱えた自分を疎ましく思うこともなく許してくれる絹代を好きだと感じている。長谷川は中学時代、今の絹代と同じように友達関係を保ち取繕って生きてきた。

そんな最中に無印良品で不意に出会ったOliちゃんは輝いていて、人間関係、友達関係の煩わしさを感じつつも現状を変える、今の関係を崩すことは出来ないというジレンマを抱えていた長谷川にとって自由闊達な憧れの姿に見えた。それは今現在の彼女視点でOliちゃんを振り返ってみたときにも変わらない。

しかし、それを高校1年生というアンニュイな年頃の(思春期感情の溢れる)長谷川は彼女に憧れていることを認めたくはないのだ。なぜならOliちゃんの鮮烈な記憶と姿勢を認めるということは、自分が思い描く屈折のない"理想の自分像"と今現在の"リアルな自分"が合致していないことを認めることに同じだからである。

そして、そんな私の深層心理上の(屈折ない隠れた本心の自分においての)望み、憧れの人を好む、にな川は幼い。それだけに溺れて没頭している。

私、長谷川はこんなにも周りを気にしているのに。それは自分を保つために必要な行為であり、自分は一個人としてグループには参加せず独立したいと、思春期特有の心理の中で思う私にとっては、あまりにも"幼い"姿だったのだ。

そんな、にな川を不意に私は蹴る。衝動的に蹴りたくなってーー友達は居ないながらも陸上部の脚が人の背中を蹴る。というか、たしかに蹴った。

ここで"蹴る"という行為によって私の深層心理上の憧れ、望みであるOliちゃんに溺愛する、にな川の幼さに活を入れるとも取れそうだが違う。

長谷川が、にな川を"蹴った"のは自分の中で相反する(ジレンマ)"なりたい自分"と"現在の思春期感情に囚われた自分"= 2つの自分が、にな川の背中越しに見えたからなのだ。

不甲斐ない、にな川の背中はもうひとつの、あえて言うなら"今の自分の背中"だ。にな川の背中を蹴ることで、結果的に自分の背中を蹴る。自己に対するジレンマを"蹴る"という暴力的行為によって発散しようとしている。"蹴る"ことで自分に反発する(自分を戒める)感情と、それを認めてあげたい感情の両方を同時に発散しているのだ。

とすると、作品中で描かれている長谷川の周りに対する感情は霧を帯びていて、ジレンマを抱えていて。そして、本心と違っているような気がして。

いや、それが"思春期の感情"なのだ。

言葉にして世間に対して示す感情、表情…その他云々と、本心は違っていたりする。それが思春期だ。原因はアイデンティティの不確立故のものであって、どれが正しい自分、どれが理想の自分なのか、それを得ることに苦心するのが思春期である。

だから、世間や友達を疎ましく思う長谷川は表に見せる冷めた様子(こいつらは、いつまで中学生みたいに振る舞うんだ。自分は自分じゃん。それが大人っていうものじゃん。私はいつもそう思っているのに、あなたたちは何でそんなことも、わからないんだろう。若いなあ、まったく。)とは裏腹に、そのようにして上手に世間を泳ぐ絹代を始めとしたクラスメートを羨ましく思う節もあるのだ。

そして、Oliちゃんのライブに長谷川とにな川、そして絹代の3人は向かう。そこで、にな川は微動だにしない。他のお客さんは、リズムにのったりして楽しんでいるのにも関わらずだ。

ここでにな川に見えているのは、まさしくOliちゃんという"虚像"である。

思春期初期の疑似恋愛的感情に囚われているにな川(になが平仮名なのも彼の幼さを誇張する為だろう)は、その後Oliちゃんの出待ちをし彼女の前に向かう、そして話しかけようとする。まるで何かに取り憑かれているかのように。

そこに本作での重要なポイントが存在する。

にな川が、Oliちゃんに話しかけようとしたその時、Oliちゃんは何事もなかったかのように、にな川の居る方向を避け移動する車へと向かった。

この時、にな川の中で大きな変化が起こる。それは"虚像"であったOliちゃん(にな川は彼女が、自分のものであるかのように感じている)が"実像"へと変化するのだ。

今までずっと雑誌や音声といった非現実の媒体の域で生きていたOliちゃんは、当然のように実在する生身の人間 = 一個人である。

それは決して、にな川のためのモノ(ここでは敢えてヒトではなくモノとして捉えた)ではないし、にな川の為に存在する生き物でもない。にな川はOliちゃんに避けられ、そして周りの警備員に取り押さえられる。

これは単なる"痛い"ファン、不審者ともとれるほど異常な溺愛をする一ファンの奇行などではない。"虚像"が"実像"へと変わる重要な転換点なのだ。

その後、にな川は長谷川に対してOliちゃんが「今までで一番遠く感じられた」と発言する。これはつまり、にな川がOliちゃんは"虚像"であり、自分は今まで彼女に囚われていたということを自覚した瞬間に発せられた言葉である。

のめり込むあまり自分がOliちゃんという"虚像"に囚われていることを感じることもなかった、にな川の心理における転換であり、思春期における一つの成長の瞬間でもあるだろう。

一方、長谷川はその発言を聞いた瞬間、また2回目の"蹴りたい"感情を露わにする。そしてもちろんのこと彼女は、にな川の背中を再び"蹴った"。

しかし、ここで長谷川は"内省"したのだ。

成長した、にな川の姿を見て。やっと気づいたのかという冷めて表に出る感情と相反し、自分自身もOliちゃんという"虚像"に囚われていたことを省みたと、言えるのではないだろうか。

つまり強がっていた長谷川も自分がOliちゃんに執着していたことを認識し、それを"蹴る"ことで発散した。

彼女、長谷川にとって"蹴る"という行為はそれを通して自分の現状を正当化、自分を認めさせる方法として成立しているのだ。

まさにこれは、防衛機制的な行動ではないだろうか。

Oliちゃんへの深層心理上の欲求、憧れの抑圧そして、作品中に何度か表れる投影、作品全般に表れる反動形成的な言動の数々。思春期にありがちな感情による揺らぎを防衛機制に委ねているのだ。

そしてお見舞いのシーンに登場する事実上一方的なキスは彼女の、にな川に対する恋愛感情なのだろうか。

いや、違う。

にな川がその後発言していたように、時々彼女がにな川に見せる"ケイベツ"的な目つきは、長谷川の自己愛(ナルシズム)の表れである。

彼にキスすることは自分を認めることであって、なりきれない自分へのジレンマを緩和させる自己愛の行動である。だから、反射的な行動であったのだ。

そして絹代に「ハツは、にな川が好きなんでしょ?」と言われる場面がある。それを、長谷川は断固として認めない。

好きを含む恋愛感情は元来、他人に向けられる感情である。絹代は、長谷川がにな川を他人として、あるいは普通の恋愛対象として好きなのだろうと考えている。

しかし、前述したように長谷川は、にな川を自己の投影的な存在として見ている側面があり、それが結果として"蹴る"という本作における重要なファクターを成しているのだから、長谷川がにな川に対して感じる「愛しいよりも、いじめたいより、もっと乱暴なこの気持ち」とは、まさしく自分に対する愛、自分を認めるための愛 = 自己愛の何者でもないのではないだろうか。

無論、自己愛だとしたら普通の他者に向けられる愛ではないのだから、絹代が言う好きの種類では毛頭ないことが分かる。だって好きなのは、にな川という他者ではない。自分のやるせなさを投影するにな川の背中=自分の背中なのだから。

しかし、ここでの自己愛は同時に自己への反発とのジレンマとして描かれている。ジレンマの中で生きる思春期の人間が作り上げているアイデンティティが確立しきらない混沌とした世界を本作は見事に描いていると言えるだろう。

綿矢りさが今作において高い評価を受けたのも、まさしく思春期を乗り越えて間もない年頃にしか分からない、書けない感情をことばにすることができたからではないだろうか。

史上最年少で芥川賞を受賞した彼女は、素直とは到底言えない思春期の心情をありのままに脚色無く表現した。これは若いからこそできるのであり、思春期のジレンマを乗り越えて間もない作家にしかできないことだ。

なぜなら思春期は人生において最も感情が揺れ動く時期であるし、アイデンティティの確立のため感情が交錯し本心が、他者にとってはもちろんのこと自分自身にとっても、つかみにくいためだ。

この思春期の揺らぎは、おそらく友達も居ない上に他者と上手く馴染めずにいたからこそ強く感じられたものなのだろう。つまり、外界(他者や自己の内なる世界以外)に対して過敏になり、その外界からの刺激が自己の内部にジレンマを生み出させることになるのだ。

孤独、ひとりぼっちだったからこそ、そのアイデンティティの確立に揺れる自己に気づいてしまい、触れてしまった。

絹代は、その揺れ動く繊細な感情に気づいていないのかもしれない。だって、彼女の周りには多くの友達が居る。自己の向かう方向が内部ではなく、外界なのだから。

しかし長谷川は外界を見つつも、基本的なベクトルが内部に向かっているためその揺れ動きに敏感であり、苦しんでいるようにも見える。

一方幼い、にな川は外界にベクトルが向いているとはいえ、彼にとっての外界とはまさしくOliちゃんだけ。彼女一直線なのだ。彼の思春期心理は、長谷川の一歩手前であり、次元がひとつふたつ低い。

思春期前半によく見られるとされる擬似恋愛に囚われている、にな川はOliちゃんが"虚像"であると知ってしまったあのライブの夜以降、長谷川と同じ立ち位置に立つことになるだろう。

と同時に、思春期のジレンマ、自己と他者の関係における葛藤に悩まされるだろう。

そう考えると、長谷川は、にな川を引っ張ったようにも思える。自分と同じジレンマの世界へと引き込んだのか。それは、長谷川自身の孤独を紛らわせるための合理的行動だったのではないか…とも考えてしまうが、本作は長谷川がにな川に対して2回目の"蹴り"を入れる瞬間で終わっている。

その後の長谷川と、にな川がどのような成長を遂げていくのか。思春期のゆらぎを脱する日が2人に訪れるのはいつになるのか、などなど。そこから先は読者の想像次第だ。