Prune.

好きなことを好きなだけ。

【短編小説】偽物と本物、あるいはその脱構築

偽られた顔を眺めて、本当のことは決してこの口から語られることなどないのだろうと思う。なぜなら、僕も嘘をついていて、結局のところはお互い様だったからだ。

「大したことはない」と彼は言う。僕はそんなふうに楽観的にはいられないんだ。本当は大したことだったのだと思う。けれど、大したことを何度も繰り返していくうちに、それは大したことではなくなってしまった。

おかしいことを繰り返していると、僕たちはそれが日常だと思ってしまい、おかしいことに気づけなくなる。偽りの顔が、平生の顔になる。なんて恐ろしいことだろう。

彼女は満面の笑みを見せる。その裏側に隠れたもの、極めて作為的に作られた満面の笑み、本当のことを語ることの難しさ、本当が本当でなくなってしまうことの厳しさ、ありとあらゆることがBad Reputationとして、僕には降り掛かってくる。

もうどうにもできない。処理落ちなのだ。

ポートレートの写真が歪む。本当に美しい人が、本当に汚く見えたりするのだとしたら、写真は結局のところ、本当のものなんて何一つ写し出していないのではないか。結局は認識というフィルターを通してしか、写真というマテリアルに接触することはできない。僕らは媒介されるものを何度も通過して、そのうちに歪んでいく。曇っていく。

信頼できるものは朽ちる。やっぱり処理落ちなのだ。

「大したことはない」と彼は繰り返す。そのうち、彼女も彼に同調するかのように「そうだよね。大したことなんてない。ない。」と呪文のように言い出すようになるのだ。

現実に現れる漫然とした不安。長雨の外を眺めるため窓を開けると、高い湿度が一気に襲ってきて僕たちはますます不安になってくる。

7月の憂鬱。

I can feel it and I know it's so strange and crazy but I also agree that I don't have to stop and cry for such a thing. There's no place to wait you and me.

言葉、エクリチュール、ポエティック、諸々の実践

言葉で確かめるような日々の実践がある。文学、歌詞、詩…言葉がいろいろなものを広げていく。

僕は明日を、言葉で確かめていく。同時に過去をも。

すべては読み替えの実践だった。僕はテクストを読み替える。読みの快楽のなかで、僕たちは「はじめまして」と「さよなら」を繰り返していく。

普遍的な言葉と、偶発的な言葉と、単発的で直情的な言葉と。

僕は青白い画面に写った歌詞を眺めて、僕自身が経験したことと照らし合わせてみたり、文字を捻じ曲げてみたり、表象と実体の間を繰り返し行き来したりする。

それが快楽なのだろうか。身体のポエティック化。エクリチュールが身体に溶け込んでくる。文章が身体に入り込んでくるのは痛いだろうに。

いつかいろいろな物事が解決して、新しい地平が開けるとしたら。期待の地平を越えていくような、美しく、心を揺さぶられるようなエクリチュール

文章を中断させ、ほかなるものと接続させる。林檎が蜜柑になるかのように、文章はあらゆるものを接続させ、接着させる。接着剤、アロンアルファ的なものとしての文章。(一般的な名称と、固有の名称の差異は、僕たちに物事の原型としてのありようと、改変された物事のありようの違いをありありと示してくれる)

覚えていることは―僕たちが覚えていることは―あまりにも少ない。僕の記憶は、断片化され、粉砕され、いずれ全く消えてしまうだろう。もう何もかも消え去ってしまいたいくらいに。

遺されたノート、読み返されるという実践。他者が別の他者の言葉に触れ、他者の内部に入っていくということ。それはあまりに恐ろしくて、同時に美しくて、でもなんだか気持ち悪い。所詮、僕たちは「何一つ」知らないし、「何一つ」分かりあえないはずなのに。

いつも目の前に現れてくる幽霊が、あたかも分かりあえているかのような幻想を作り出している。そそのかされている僕たち。幻想の共犯者にだって、なってしまうかもしれない。

文章が現実を正確に測れないとしたら、あなたは写真を撮るかもしれない。しかし、安心してほしい。写真も(やはり)同様に、現実を測れないだろう。デジタルカメラが写真に映る陰を数値化したとき、その陰は死んだも同然だ。

ひとりごとを彼は言うだろう。今日もきっと。彼女は今日もベッドで悲しい気持ちになって、眠れなくなるだろう。そのとき、エクリチュールには何ができるのだろう。僕は言葉を操って(操っているなどという幻想を抱いて)誰に何ができるだろう。

【短編小説】Synthétique

Tout s'embrase dans mes rêves synthétiques.

(Zarba par Therapie TAXI)

総合的で、連鎖的な、事物そのものが問いかける真実という構築物。全ては意味のなかで溶け合い、身体において統合され、文化のなかで形態を獲得する。

混ぜ合わせたアイスクリームは、様々な色をしていて、それは現実の混沌さを表象するに最も適当な存在であるように思える。事態はあまりに複雑、問題は把握され得ないほどに他の問題と絡み合っている。

Synthétiqueな問いを立てたいと思う。あらゆる問題は総合的だ。相反のなかで成り立っている。美しいのは、汚いからで、素晴らしいのは、酷いからだ。

現実的な諸問題に飽き飽きとした人々が見せる、他者への眼差しは、他者ではなく自己に向かっている。その眼差しは対象者としての他者を措定することもなく、他者に関心を向けることを意味するための眼差しでもない。

眼差しはいわば「規定」されたにすぎない。それは、自己を確認するために規定されたものなのだ。しかし、その自己は結局のところ、他者との相互媒介的な関係のなかで成立した、一過性の幽霊にすぎない。結局、幽霊はSynthétiqueな複数性のなかで一時的に立ち上がった蜃気楼のようなものだ。

Ensembleであれと、誰かはいう。集合的な身体は、Synthétiqueな問いを立ち上げ、Ensembleのなかで奏でるだろう。それは回答不可能性の中に浮かぶ問いであり、問いの答えを要求しない―より正しくは答えを要求しないことを答えとする―問いである。

光が現れてくる。朝がやってくる。真夜中の複雑性と、ある種の限界性はここで一つの終着点を迎える。終着は新たな始点になる。

Synthétiqueであること、それ自体を構築していくこと。そんなことが頭のなかをよぎっていく。Synthétiqueであることとは、何なのだろう。