Prune.

好きなことを好きなだけ。

「平坦な戦場」を生き延びていくために―岡崎京子「リバーズ・エッジ」をめぐって

【この記事は一部ネタバレを含みます】

先日映画化された、岡崎京子リバーズ・エッジ」を早速観に行ってきた。実は原作の漫画本は少し前に買ってはいたものの、あえて読んでいなかった。というのも「ジオラマボーイ・パノラマガール」あたりから岡崎京子を読み始めたから、どうもあの暴力性や狂気的な要素が強い本作を積極的に読む気にはなれなかったのだ。ということで、全体的なストーリーをあまり知らずに映画を観に行くことになった。

リバーズ・エッジを語る上で、「平坦な戦場」という言葉は一つの重要なキーワードになる。この言葉は米国の作家、ウィリアム・ギブソンの詩から引用されたものだ。この平坦な戦場という意味をどう捉えるかは人によってまちまちだと思うが、僕はこのように捉えた。

「平坦な戦場」とは表面的には静かで苦しみも悪の欠片も見当たらない場所に、実は内在的な悪や苦しみ、悲しみが眠っているという意味だ、と。

つまり僕らの前の世代がかつて経験した戦争は、その戦争の原義通り銃弾が飛び交い、爆弾が空を舞う、いわゆる肉体的な苦しみを感じる戦いだった。それはまさしく直接的な身体の死を意味するし、炎が人々を焼き尽くす凄惨な戦いだ。

一方、岡崎京子リバーズ・エッジで示す「平坦な戦場」は、戦後の高度経済成長、バブル、資本主義の成熟を迎えた都市で生きる普通の人々が味わう苦しみであり、戦いであるといえる。こちらは前者と対比させるなら、精神的な苦しみを感じさせる戦いだ。そこには物質的には満たされても、愛や友情といった目に見えないものが足りていないたくさんの人々がいる。それはある種、都市生活者の憂鬱であるかもしれない。

さてリバーズ・エッジは端的に言えば、登場してくる人物全員が皆何かしらの問題性を抱えているといえる。

主人公である若草こそ健全そうに見えるものの、彼女自身も自分が生きること、生きていくことに対して主体的ではなく、自分という意識が希薄な人物だ。

若草の彼氏である、観音崎は暴力にドラッグ、セックスと退廃的な様相を見せる。しかし、彼もまた家族に愛されないという強い孤独とコンプレックスを背負う人物だ。

観音崎らから執拗ないじめを受ける山田は、同性愛者でありいじめを受けるなかで、生きる者に対しての意識や愛が希薄になってしまった。自分をいじめる人々に対する強い憎悪の感情を見せながらも、その一方で半ば諦念のようなものを感じさせる。

山田と秘密を共有する、モデルの吉川は過食症で、大量に物を食べては吐き出す。彼女は自分の身体に対して「気持ち悪い」という感覚を抱いており、それはこの年頃の人々(特に女性)が抱える一つの大きな問題なのかもしれない。

山田の彼女の田島は、彼を愛する思いによってどんどんと悲劇的な道を辿ってしまう。山田は同性愛者だから、本当は田島のことなど愛してはいない。けれど、田島は一方的に山田への愛情を強めていく。好きになってほしい気持ちがどんなに強くなっても、決して好かれることはない、悲劇的な悲しみも垣間見れる。

若草の友人の土居は、若草の彼氏である観音崎と身体の関係になるが、それだけでは収まらず様々な男と関係を持ち、相手の分からない子どもを身ごもることとなる。彼女にもまた、いくら他者と身体を重ねても、そこには刹那的な幸せや逃避があるだけで、本質的には何も満たされないし、逃げられないという永遠の孤独が存在するように思えた。

この作品中には、様々な複合的なテーマによる社会への問いかけがあるように思える。それは決して物語という架空世界に留まらず、今僕たちが生きるこの現実世界に対して、大きな示唆と警告を与えているように思えた。

孤独、依存、不在、愛、他者承認...

これらの普遍的なキーワードは、リバーズ・エッジを語る上で必要不可欠な要素ではないか。こんなにもモノが溢れる大量消費社会のなかで、どうしてこの作品の登場人物たちは皆幸せになることがあんなにも困難なのか。

岡崎京子は、ただフィクションを描くだけの漫画家ではない。彼女が描く作品には必ず現実との接点があり、彼女の作品世界と現実世界は常に呼応しているといえる。

たしかにこの作品を映画館で観ているとき、あまりにシュールというか退廃的すぎて、正直ついていけないと思うことが何度もあった。だって僕らは日常で、圧倒的な暴力に出会うこともないし、誰かの退廃的な死に直面することも少ない。表面的には皆何食わぬ顔をして生きている。

しかし、人々の着ぐるみを剥ぎ取り、内側を覗いてみればいい。内側には皆誰しも、内なる荒廃を抱えているように思える。僕らは何事もなかったかのような、悲しいことなんて何一つもありませんよ、人生ハッピーですよという顔を見せて日々生活しているかもしれない。しかし、その内側にはおそらく、圧倒的な消費社会かつ成熟した資本主義社会に生きる僕たちの「平坦な戦場」があるはずだ。

「平坦な戦場」は、いつだって僕らの内側に存在している。ただそれが見えにくくなっているだけだ。僕らが、観音崎や田島のようになることだって、決してあり得ないことではないのだ。

ギブソンは綴る。

この街は
悪疫のときにあって
僕らの短い永遠を知っていた

僕らの短い永遠

僕らの愛

愛する人(みっつの頭のための声)】
WILLIAM GIBSON黒丸尚

岡崎京子は何を伝えたかったのだろうと思う。

彼女が当時描いていたもの、伝えたかったことが、今のこの時代に映画という別のメディアでまた広がっていくということ。それはとても尊いことに思えてならない。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 
エッジ・オブ・リバーズ・エッジ―<岡崎京子>を捜す

エッジ・オブ・リバーズ・エッジ―<岡崎京子>を捜す