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外国人から見た東京とは: Lost In Translation (ロスト・イン・トランスレーション)

先日、ソフィア・コッポラ監督による映画作品「Lost In Translation」を観た。あの巨匠フランシス・コッポラの娘の作品ということで、正直単なる親父の名前でウケてるだけの安っぽい作品なのではないかという半信半疑な気持ちもあったが、それは良い意味で裏切られた。東京という地で、2人の外国人が恋に落ちるというストーリー。まあ、ありきたりかもしれない。

しかし、今作で逃してはならない重要なファクターは間違いなく「東京」ー それである。

ネオンの光が眩しい新宿をハイヤーで横切る主人公ボブ(ビル・マーレイ)の姿が冒頭に映る。彼はハリウッド・スターでありながら巨額のCMオファーを受け、その撮影のため来日。そしてもう一人の主人公であるシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は結婚した写真家の旦那の撮影のため同行している。2人に共通するのは、「幸せなのに幸せじゃない」ということ。

ボブは倦怠期を迎えた妻が自分をほとんど気にかけてくれないことに辛さ(諦めと言ってもよいのかもしれない)を感じているし、シャーロットは新婚にも関わらず旦那となかなか一緒にいることができず、そこに本当の意味での愛情があるのか常々悩んでいるように見える。

「幸せなのに幸せじゃない」というのは、この作中の2人に関わらずおよそ心当たりのある方が多いのではないだろうか。大好きな人がいても、その人の隣でどこか幸せな気持ちにはなりきれなくて、形としては幸せなのに本当の意味での幸せは何もつかめていない。それはステータスとしての誰かであったり、一般定義化され半ば強要された結婚、家庭であったり。そんな悩みを抱えた多くの人が観ても共感できる作品である。

そして「東京」という異邦の地で2人は偶然出逢う。お互いの足りないところ(幸せなのに幸せじゃないところ)のピースを埋め合わせるかのように2人はどんどんと引き寄せられていく。例えばこれがロンドンだったらどうだろうか。いくら旅先とは言え、ロンドンであったらこんなラブ・ストーリーはきっと生まれなかっただろう。なぜなら、そこはEnglishmanの土地だから。海外とは言えども、英語圏であることに変わりはない。

この作品が育んだ愛情は、「東京」という非英語圏であったからこそ成り立ったものなのではないか。大多数が日本語を話す土地。不慣れな土地で異国の人間は、部外者(アウトサイダー)のような気持ちになることがあるだろう。Stingの名曲、Englishman In New Yorkでも彼はこう唄っている。「I’m an alien, I'm a legal alien, I’m an Englishman in New York」ーイギリス生まれの彼が同じ英語圏のニューヨークの地に降り立っても少なからず異邦人としての感覚を味わっている。これが東京ならばー。その気持ちがますます強くなることは想像に難くない。そんな地で出逢った同胞の異性。これだけでもなかなか感じるところがあるのに、お互いが同じ痛みを背負っていたならば。何か特別な感情が始まってしまっても、それは全くおかしいことではないだろう。

Lost In Translationというタイトルには、翻訳で抜け落ちてしまった言葉の部分を示す意味があるという。日本語が伝えようとした感情を僕たちは完璧な形で英語にトランスレーションすることは出来ない。その不完全性が東京にやってきた2人の心の中の喪失をより深く抉ってしまう。

この作品中には、My Bloody ValentineThe Jesus and Mary Chainをはじめとするシューゲイザーの楽曲がいくつか登場する。そして僕はこの選曲に心を揺さぶられてしまった。シューゲイザーの轟音ギターのなかに隠れる内省的な感情(センチメンタルでもあり、いくぶんエモーショナルだ)が映画と混ざり合い、作品の純度を高めている。Lovelessのように愛情が乾いたものになっていた2人にとって、「東京」という地はどんな気持ちにさせる場所なのか。

「東京」に限らず街は僕らにたくさんの記憶を蘇らせ、懐かしい気持ちとともに、少し哀しいことまで思い返させてくれる。毎日話しながら歩いた道路や待ち合わせをした駅の改札、一緒に遊んだ場所。家族と、友達と、恋人と。沢山の想い出が街には眠っている。そんな街の一つとして「東京」が思い返されるだろう。パレットの絵の具を画用紙に塗りつけていくように、人々の想い出はその街に多彩な色を与え、重なっていく。

「幸せなのに幸せじゃない」と感じているなら、今すぐこの映画を観るべきだ。「幸せなのに幸せじゃない」一見矛盾していると思うかもしれないが、前半の幸せはあくまでも形としての幸せ。本当の気持ちを隠した殻みたいなものだ。言うならば、Facebookで公開されている毎日のようなもの。そして後半で言う幸せとは、包み隠さない心からの幸せのこと。例えば、自分にふと問いかけたときに返ってくるような正直な気持ち。幸せなはずなのに、どこか違う…という気持ちは、きっと想像以上に多くの人が持っている普通の感情だ。もしかすれば今隣にいる家族や、友達、大好きな相手だってそう想っているのかもしれない。

日本滞在中の数日間しか続けられない恋。それが異邦者同士で一時のストレスを紛らわすためだけの存在であったとは僕は思わない。お互いが心の深い部分で抱えていた喪失感を2人は共有し、その確かめ合いが2人の愛情をより強いものにしたのだ。さっきまで一緒にいた誰かも、一歩「東京」の街に出て離れてしまえばもう赤の他人。目線の先が届かなくなってしまえば、もう二度と逢うことなんて無いのかもしれない。そんな街(とりわけ都市)が抱える軽薄性さえも、この愛情をもってすれば僕らをより感傷的にさせる存在にしてしまうのだ。

僕は駅の改札付近で待ち合わせをする人たちをよく見かけることがある。もちろん僕が誰かを待ち合わせることもあるんだけど、いつもその先で誰を待って、どんなことを楽しみにしているんだろうなと思ってしまう。

数年ぶりに逢う友達とのご飯かもしれないし、大好きな人とのデートかもしれない。あるいは、家族の久しぶりの再会であったり。一つ一つにドラマがあったとしても、「東京」はそれらを包み込み(あるいは飲み込み)、そのドラマは大きな黒板消しのようなものでいつもかき消されてしまう。「東京」という街の地図が黒板に描かれて、そこにそれぞれの人たちの出逢いや別れ、そのドラマが書き足されていったとしても終電が終わる頃にまるで1日をリセットするかのように、地図はまっさらに描き直されその記憶は不意に消えてしまう。そしてまた始発がやってきて大都市の1日は何事もなかったかのように始まっていく。

そんな大都市「東京」で、もしかしたら今日もLost In Translationのような恋があったのかもしれない。もちろんそれはかき消されて、僕たちには決して見えないものになってしまうんだけど。そんな風に考えると、毎日ただ通学や通勤の行き帰りを繰り返すためだけに使っている駅や街も少し違って見えてくるかもしれない。

今日も「東京」は僕らのドラマを見守っている。

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