カキツバタの花言葉は『幸せは必ず訪れる』だ。
小沢健二が表参道で街頭ライブを行った映像を観て、彼がカバーしていた曲、Pii「カキツバタ」を聴くことになった。
ほとんど正体不明のPiiというアーティストが歌うこの曲は、メロディもさることながら、歌詞がとても魅力的だった。コロナ禍というこの時代に、街、そして人々を歌っている。
息苦しい時代、東京で働きながらも毎日を過ごしている僕には、この曲の歌詞がとても響いてきた。
話は変わるが、昨日6月19日は太宰治の桜桃忌だった。
彼の代表作『女生徒』には、こんな一節がある。
「あすもまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。」
「幸福は一生、来ない」というところが、実に太宰っぽいように思える。
しかし、それでも明日は幸せになる、と「信じる」のだ。このことが、Piiの「カキツバタ」を聴きながら僕のなかで重なった。
カキツバタの歌詞には、
時を待つカキツバタのように
幸せはくる 願いは叶う
そう信じることが花言葉なんだと
父が言った 昔を想う
こんな一節がある。そう、やっぱりここでも幸せを「信じる」ことが歌われているのだ。
今が幸せか?と聞かれたら、幸せだよと素直に答えられるかわからないけれど、それでも幸せを「信じる」こと、それが大きな意味を持つのだと思ったのだ。
最近、僕はとても幸せそうな友人からの話を、長い時間聞いた。
こんなコロナの時代、閉塞感が漂う時代でも、それぞれの人々が個々の小さな幸せを少しでも生み出しているのであれば、世の中は決して悪いものではないと思ったのだ。
僕は幸せな人が、幸せそうな顔をしていること、そしてそれが本当であればあるほど、素敵なことだなと思う。
この大都市、東京に生きる人たちが、実はそれぞれが小さな幸せを少しでも抱くことができているのならば、こんな時代でもそれこそが希望になりうるのだと思う。そうした他者の幸せを心から喜べることが、自らの幸せにもなるのかもしれない。
そんなに世の中甘くない、世の中は実に冷淡だ、そういった意見もあるかもしれないし、それには同意できる部分がある。しかし、僕たちをつなぐそうしたささやかな幸せ、そしてそれが都市のなかに、名もなき人々の表情に、そして所作に現れるのであれば、それはどれほど素敵なことだろうかと思う。
僕はそういった幸せが、都市のシステムやアーキテクチャの厳格性を超えたところで、ささやかに現れていることを美しいと思うし、それがこの街の魅力になりうるのだろうと感じる。
カキツバタの花言葉『幸せは必ず訪れる』を信じて、明日も、明後日も歩いていけるならば、それ自体がもう幸せなのかもしれない。