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Prune.

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小保方晴子の手記 "あの日" に見るメディアの陰

音楽レビューだけだと続かなくなりそうなので、今日は少し本のはなしを。

昨日、今日とSTAP細胞騒動で話題となった小保方晴子さんの手記"あの日"を読んでいた。250ページほどの手記で途中生物の専門用語が多数登場するページもあり、流し読みをした部分もあったが概ねするすると読み進めることができた。

この本を読んで感じたことは、なんといってもメディアという存在の危険性だ。一方的な報道や煽動的な報道が容赦なく成されてしまうという事実。ジャーナリズムの名の下で脅迫的な行為が小保方さんに行われていたことが記されていた。メディアが自分たちに都合のよいように内容を改変したり、”魅せる”行為を行っていることは多くの人が周知のことと思うが、そこにはやはりメディアという存在が持っている権力の大きさがあらわれている。

メディアは自分たちの利益を最大限高めるために(書籍であれば売上数増加、テレビ・ラジオであれば視聴率増加を狙う)できるだけコンテンツを面白く、多くの人々にとって受容されやすいものに仕上げる。

今回の一連の騒動を思い返してみると、STAP細胞・現象の存在が発表されたときは若い理系女性という存在が”世間受け”しやすいとメディアは睨んでいただろうから、彼女に”リケジョの星”などと名づけてムーブメントを加速させた。研究者である彼女をなかば、芸能人的に扱ったメディアのあり方に疑問を持った方も多かったのではないか。
そして、STAP細胞・現象の存在が怪しくなり始めたあたりから、散々”リケジョ”と持て囃していたマスメディアは掌返しをして、彼女を完全なる”悪人”として取り上げた。

もちろん博士論文の不正があったことや研究者としての素質や態度に問題があったことは事実だ。

しかし一方的に、かつ高圧的に小保方晴子、彼女だけを悪の象徴のように報道したメディアの姿勢には釈然としない気持ちがある。

そこにはメディア関係者の倫理観が関係してくると思うが、このようなときにメディア関係者はしばしば報道の自由やジャーナリズムという言葉を都合よく使う。ジャーナリズムがジャーナリストにとって主軸となることは明らかだが、他人のプライバシーや主張を歪曲して報道することですらジャーナリズムの名の下で許容され得るとは到底思えない。

メディアが規制されて自由に言葉を発することができないのは大いに問題だが、一個人が自由な発言の機会を与えられない(もしくは与えられたとしても、メディアによって恣意的に捻じ曲げられてしまうという事態)ことも同様に、いやそれ以上に問題と言える。
そもそもメディアの方が一個人より、社会的権力も圧倒的に強いし、全国に対して広範に情報を伝達する手段も確立している可能性が極めて高いからだ。一個人がネット上で声明を発表したとしても、テレビや雑誌での報道の方が優先されるのは目に見えている。大きさの違いは明らかだ。

本書を読んでいると、研究不正で小保方さんが実験を捏造した可能性はやはり否定できない。しかし、彼女だけで実験や論文が成り立っているわけではない。そこには指導、監督、協力をした研究者が複数関与しているのだ。にも関わらず、メディアによる責任の追求やバッシングの多くは小保方さんに浴びせられた。30代のまだ研究者に成り立ての1人に対して悪の大多数を背負わせることはやはり過ちだったのではないか。

望まれるべきことは彼女を悪に仕立てあげることではなく、なぜこのような事態が起きてしまったのかという真相解明と、それに付随して彼女の所属していた理研早大、ハーバード大、女子医科大の責任を明らかにすることだ。特に理研については本文中で内部からの情報漏洩が何度もあったことが明らかにされているが、そもそも公的機関として機密情報を扱う姿勢に問題があったのではないかと思わずにはいられない。本来メディアはそのようなところにも目を向け、十分に批判しなくてはなけない立場なのだ。特定個人を大いにバッシングして、大きな機関はあまりバッシングしない。力関係の構図としてこうなってしまうのは受け止めざるを得ない点もあるが、本来このようなところにこそメディア関係者のジャーナリズムの剣は正しく刺さるべきだ。

やはりこの騒動においての多くの過ちを先導したのはメディアだったと言わざるを得ない。加速する報道のなかで、彼女へのバッシングだけが行き過ぎてはいなかったか。バッシングが一人歩きしていたのではないか。

この本を読みながらそんなことを何度も思った。

そのようなバッシングを楽しんで、喜んで需要する多くの人々がいるからメディアはバッシングをする。この構図はとてもシンプルだ。欲しい人がいるから、与える。単純な理屈に思える。しかしそれは食べたい時にはいくらでも食べる、欲しいものは何でも買う、嫌なやつは排除するなどと同じく、極めて自己中心的な思想に他ならない。

そこに理性はあるのかと考えると、とても疑わしい。ジャーナリズムや報道の自由を盾にして、都合良く解釈し社会的責任を放棄することはやはり望ましい姿でないし、そのようなことが平気で行われている実態に目を背けてはいけないと思った。

しかし、皮肉なことにそんなメディアの報道に翻弄された彼女が世間やメディアへの対抗措置として使ったのも書籍というメディアだということを忘れてはいけない。
彼女は強いメディアに罵倒され、今強いメディアでまた反撃しようとしている。そこに彼女の強いバイタリティを感じずにはいられない。

謙虚に正しいことだけをありのまま報道しようと努力されているメディア関係者の方もたくさんいるだろう。でもその一方で、数字だけ取れれば良いと誤った解釈が成されたジャーナリズムの言葉を片手にメディアを使う人もいる。もしかしたら、本人もジャーナリズムという言葉の持つ正義感(あるいは魔力)に酔っていて、自分は正しいことをしていると信じて疑うこともないのかもしれない。

ここで大切なことはきっと、常にこれで良いのかと自分自身と物事を疑うことだ。全てのメディア関係者が自問自答し、報道に対する謙虚さを持ち合わせること。それはとても難しいことだが、その意識があるかないかで事態はだいぶ変わってくる。

そして僕たち受け手はメディアを通して与えられる情報の信ぴょう性や歪曲の可能性を踏まえて、すぐに飲み込まないことを覚えなくてはいけない。その情報を飲み込む前に、一つのことに対して違う意見や考えを述べている他の情報を読み込み、複数の視点を組み合わせて自分なりの解釈をすることが求められると思う。もちろん、そこに絶対的な解を求めることは困難だろうが、全てを疑うことなく受容するという姿勢と比べればよっぽど良い。

つらつらと書いてきて、ほとんど書評というよりメディアの話になってしまったが、要するに、この本からは一連の騒動の真相解明よりもメディアとその関わり方について考えさせられることの方が多かった。

結局、真相は闇の中。

きっとこれからも解明されることはないだろう。しかし本というメディアの手段を持って、メディアに心身を衰弱させられた彼女が考えを世間に広く公表できたのは何よりだし、その機会が与えられたことは不幸中の幸いだったといえる。

あの日

あの日