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"バーチャル"に取り憑かれる私たちの日常とその身体ー"リアル"との対比を通じて

最近、こんな人に出会った。

「僕はやっぱり対面でのコミュニケーションや関係を大切にしていて。だからネット上で誰かと知り合うとか仲良くなるというのは、やっぱり信じきれないし、そうあるべきではないと思うんです。」

完全にこう言っていたかは定かではないが、要旨はこんな感じだった。僕はその人と、「仲良くなる」ということが行われる空間についての話を雑駁にしていたのだけれど、要はネットで仲良くなるとかあり得ない、という話だった。

僕はそのときたしかに、やはりネットのようなバーチャル空間でのコミュニケーションは、リアル空間においての対面でのコミュニケーションに勝つことはできないだろうと思っていた。対面の会話でコミュニケーションをとること、それが至上であると思っていた。

しかし、最近都市空間とコミュニケーション、メディアに関する本を読んでいたら、実はそうとも言えないのではないかと思ってしまったのだ。

そこにはリアル空間がもつ固有性を、携帯は見えない他者とのバーチャルな繋がりを通じて超越していくと書かれていた。この種の話(携帯が公共空間に侵入してきただとか、携帯が外部と内部との境界線を曖昧にしただとか。メディア社会学などで語られる言説だ)はしばしば耳にするところではあるけれど、本当なのかと今まで若干懐疑的だった。

しかし「大学生は、しばしば講義教室でも講義を聞かずに、スマホを見ながらバーチャルの誰かとメッセージを送り合う方をより強く求めている。」といった趣旨の指摘に、自分の実体験を思い出し耳が痛いと思いつつも、深く共感してしまった。

つまり、このとき僕たちは「講義教室」というリアル空間が持つ固有性(その空間が持つ意味性=この場合、教授が講義を行い、それを聞くことが私たちに求められているというその空間固有の特徴)を離れて、スマホという外部―内部を縦横無尽に駆け巡る装置を用いることで「講義教室」というリアル空間を飛び抜けてしまっているのだ。

スマホという強力な装置は、私たちをリアルに根ざす空間から解き放ち、不可視的なバーチャル空間へと引きずり込む。私たちは、講義がつまらないからスマホを触っているだけではないだろう。恐らく、スマホが持つその強力な磁力(それはバーチャル空間へ誘おうとする魔力のような)に私たちの弱い心は屈してしまっているのだ。

それでは、私たちはなぜバーチャル空間をこれほどまでに求めてしまうのか。かつては存在しなかったバーチャル空間。それは電話機や携帯電話、インターネット、そしてスマホの普及によって年々その領域の拡大を続けている。

僕はきっとその根底的な理由には「リアル空間で私たちが接続できる相手、コミュニケートできる相手は物理的に限定されているから」ではないかと考える。私たちが、ある一定の時間において、お互いに意思疎通を図ることができる人数はかなり限られている。もちろん、小中学校での校長先生のお話のように、壇上からその下にいる大勢に対して何かを演説することは可能だろう。しかしこのとき、相互的な意思疎通、そして対話が成立しているとは考えにくい。皆が一斉に意見を述べ、それに壇上の校長が応えていくというシーンを想像することは極めて難しい。

しかし、バーチャル空間ではどうだろうか。バーチャル空間では私たちは、一定の時間において、お互いに意思疎通を図ることができる人数は限界があるとはいえ、リアル空間のそれと比較するとかなり多いといえる。というのも、Twitter的なソーシャルネットワークに行けば必ず誰かしら(それも世界の)が発言をしているし、いつでもそれに返信を送ることができる。ビデオ配信を開始すれば、瞬く間に大量の人がやってきて、見きれないほどのコメントで溢れてしまったりすることもあるかもしれない。LINEでも、同時的に様々なコミュニティや人と会話をすることが可能だ。

そしてバーチャル空間にはリアル空間がその性質上抱える、物理的距離による制約が無効化されることで、想定され得る他者の限界性が存在しなくなる。私たちは今この瞬間にも、地球の裏側にあるブラジルのある人に対してメッセージを送ることができるし、もしそのある人がオンラインならば即座にメッセージへの返信を受け取ることができる。何なら電話だってできる。

そしてリアル空間では不可能な、同時に複数のコミュニティとコミュニケートを行うことができる。ネトゲのゲーム仲間コミュニティ、Twitterの趣味コミュニティ、LINEのリア友とのコミュニティといった具合に、縦横無尽にコミュニティを横断することはバーチャル空間でのみ可能な行為だ。

つまるところ、私たちは究極的な「繋がってる感」をバーチャル空間では獲得することができる。ここでいう「繋がってる感」とは、時間的・空間的・距離的な限界を越えて世界と、そして人々と直接接続されているような身体感覚のことを指す。私たちの身体は、誰か他者とつながることを切実に求めている。それは私たちが社会的動物であるからかもしれないし、また同時にリアル空間においての「孤独感」が増大しているからかもしれない。

しかし、私たちがこのバーチャル空間で得ているであろう究極的な「繋がってる感」は、現代人の孤独感を癒すための極めて有効な処方薬であるかのように見えるが、同時に一瞬で関係が消え去ってしまうかもしれないという強烈な副作用も持ち合わせている。バーチャル空間で得ることのできる「繋がってる感」は、その相手が実在する人物であるにせよ、AI(人工知能)であるにせよ、顔が見えないからこそ容易に無視されるし、拒絶されてしまうのだ。

僕たちは容易にLINEを未読放置できてしまうし、かかってきた電話を着信拒否することができる。嫌な人は、ブロックしてしまえばそれで終了だ。まるでテレビゲームをプレイするかのような感覚で、私たちはバーチャル空間での他者とのコミュニケーションを容易に遮断したり、中断したりしてしまう。これはつまり、バーチャル空間における究極的な「繋がってる感」は簡単に無効化され得るということを意味する。究極的なそれは、簡単かつ究極的に消えてなくなってしまうかもしれないのだ。

ここまでの文章を踏まえて、冒頭で書いた内容に戻りたいと思う。

ネットで仲良くなるとかあり得ない、に対しての僕なりの回答は、決してあり得ないとは思わない、だ。だって僕たちはバーチャル空間でリアル空間に勝るような接続性を獲得し、他者とコミュニケートすることができるから。しかも、バーチャル空間の存在はリアル空間を凌駕しうる。僕たちが今位置している、あるいは、存在しているリアル空間をすっ飛ばし、目に見えない何かに僕らがすがっていくことを求めるバーチャル空間。

しかし、そのバーチャル空間はその強力さとともに、あまりにも酷い冷淡さも(容赦なく)兼ね備えている。その冷淡さが発動したとき(それを発動させるのは、もちろんそのバーチャル空間に存在する人そのものだが、それを誘導している、あるいは、その背中を押しているのは確実にバーチャル空間の特性そのものである)私たちはきっと苦しみ、そして以前にも増して、より強い孤独を感じることになるだろう。多幸感などずっと続くはずがないという宿命性と同様に。

そんなことを考えると、僕たちはやはりバーチャル空間よりリアル空間を信じるべきだし、リアル空間を大切にするべきなような気もしてくる。バーチャル空間で仲良くなれるなんて悪魔的な言説だ、と。しかしもはや、僕たちの交友関係、そしてそこに発生してくるコミュニケーションからバーチャル空間を排除することはできない。それは世界のどこへ行っても、いつ如何なるときでも私たちの身体にしがみつき、離れない厄介な魔物とでも言える存在なのだから。

「平坦な戦場」を生き延びていくために―岡崎京子「リバーズ・エッジ」をめぐって

【この記事は一部ネタバレを含みます】

先日映画化された、岡崎京子リバーズ・エッジ」を早速観に行ってきた。実は原作の漫画本は少し前に買ってはいたものの、あえて読んでいなかった。というのも「ジオラマボーイ・パノラマガール」あたりから岡崎京子を読み始めたから、どうもあの暴力性や狂気的な要素が強い本作を積極的に読む気にはなれなかったのだ。ということで、全体的なストーリーをあまり知らずに映画を観に行くことになった。

リバーズ・エッジを語る上で、「平坦な戦場」という言葉は一つの重要なキーワードになる。この言葉は米国の作家、ウィリアム・ギブソンの詩から引用されたものだ。この平坦な戦場という意味をどう捉えるかは人によってまちまちだと思うが、僕はこのように捉えた。

「平坦な戦場」とは表面的には静かで苦しみも悪の欠片も見当たらない場所に、実は内在的な悪や苦しみ、悲しみが眠っているという意味だ、と。

つまり僕らの前の世代がかつて経験した戦争は、その戦争の原義通り銃弾が飛び交い、爆弾が空を舞う、いわゆる肉体的な苦しみを感じる戦いだった。それはまさしく直接的な身体の死を意味するし、炎が人々を焼き尽くす凄惨な戦いだ。

一方、岡崎京子リバーズ・エッジで示す「平坦な戦場」は、戦後の高度経済成長、バブル、資本主義の成熟を迎えた都市で生きる普通の人々が味わう苦しみであり、戦いであるといえる。こちらは前者と対比させるなら、精神的な苦しみを感じさせる戦いだ。そこには物質的には満たされても、愛や友情といった目に見えないものが足りていないたくさんの人々がいる。それはある種、都市生活者の憂鬱であるかもしれない。

さてリバーズ・エッジは端的に言えば、登場してくる人物全員が皆何かしらの問題性を抱えているといえる。

主人公である若草こそ健全そうに見えるものの、彼女自身も自分が生きること、生きていくことに対して主体的ではなく、自分という意識が希薄な人物だ。

若草の彼氏である、観音崎は暴力にドラッグ、セックスと退廃的な様相を見せる。しかし、彼もまた家族に愛されないという強い孤独とコンプレックスを背負う人物だ。

観音崎らから執拗ないじめを受ける山田は、同性愛者でありいじめを受けるなかで、生きる者に対しての意識や愛が希薄になってしまった。自分をいじめる人々に対する強い憎悪の感情を見せながらも、その一方で半ば諦念のようなものを感じさせる。

山田と秘密を共有する、モデルの吉川は過食症で、大量に物を食べては吐き出す。彼女は自分の身体に対して「気持ち悪い」という感覚を抱いており、それはこの年頃の人々(特に女性)が抱える一つの大きな問題なのかもしれない。

山田の彼女の田島は、彼を愛する思いによってどんどんと悲劇的な道を辿ってしまう。山田は同性愛者だから、本当は田島のことなど愛してはいない。けれど、田島は一方的に山田への愛情を強めていく。好きになってほしい気持ちがどんなに強くなっても、決して好かれることはない、悲劇的な悲しみも垣間見れる。

若草の友人の土居は、若草の彼氏である観音崎と身体の関係になるが、それだけでは収まらず様々な男と関係を持ち、相手の分からない子どもを身ごもることとなる。彼女にもまた、いくら他者と身体を重ねても、そこには刹那的な幸せや逃避があるだけで、本質的には何も満たされないし、逃げられないという永遠の孤独が存在するように思えた。

この作品中には、様々な複合的なテーマによる社会への問いかけがあるように思える。それは決して物語という架空世界に留まらず、今僕たちが生きるこの現実世界に対して、大きな示唆と警告を与えているように思えた。

孤独、依存、不在、愛、他者承認...

これらの普遍的なキーワードは、リバーズ・エッジを語る上で必要不可欠な要素ではないか。こんなにもモノが溢れる大量消費社会のなかで、どうしてこの作品の登場人物たちは皆幸せになることがあんなにも困難なのか。

岡崎京子は、ただフィクションを描くだけの漫画家ではない。彼女が描く作品には必ず現実との接点があり、彼女の作品世界と現実世界は常に呼応しているといえる。

たしかにこの作品を映画館で観ているとき、あまりにシュールというか退廃的すぎて、正直ついていけないと思うことが何度もあった。だって僕らは日常で、圧倒的な暴力に出会うこともないし、誰かの退廃的な死に直面することも少ない。表面的には皆何食わぬ顔をして生きている。

しかし、人々の着ぐるみを剥ぎ取り、内側を覗いてみればいい。内側には皆誰しも、内なる荒廃を抱えているように思える。僕らは何事もなかったかのような、悲しいことなんて何一つもありませんよ、人生ハッピーですよという顔を見せて日々生活しているかもしれない。しかし、その内側にはおそらく、圧倒的な消費社会かつ成熟した資本主義社会に生きる僕たちの「平坦な戦場」があるはずだ。

「平坦な戦場」は、いつだって僕らの内側に存在している。ただそれが見えにくくなっているだけだ。僕らが、観音崎や田島のようになることだって、決してあり得ないことではないのだ。

ギブソンは綴る。

この街は
悪疫のときにあって
僕らの短い永遠を知っていた

僕らの短い永遠

僕らの愛

愛する人(みっつの頭のための声)】
WILLIAM GIBSON黒丸尚

岡崎京子は何を伝えたかったのだろうと思う。

彼女が当時描いていたもの、伝えたかったことが、今のこの時代に映画という別のメディアでまた広がっていくということ。それはとても尊いことに思えてならない。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 
エッジ・オブ・リバーズ・エッジ―<岡崎京子>を捜す

エッジ・オブ・リバーズ・エッジ―<岡崎京子>を捜す

 

【短編小説】あるソルナ・セントラムでの邂逅をめぐって

ソルナ・セントラムの地下鉄駅を電車は既に通り過ぎていた。気づいた頃にはヤコブの目の前に座っていた三十代後半くらいのいかにも高価そうなコートを羽織った婦人も、電車を降りてしまっていた。

彼があの日彼女に出逢ったのは、このソルナ・セントラムの地下鉄駅構内だった。

彼女はあの日、改札前で駅員と会話をしていた。しかし、そこには会話と到底言うことのできないようなコミュニケーションの欠如があった。なぜなら彼女は日本からストックホルムに来た旅行客だったからだ。正直、彼女は英語一つもろくに話せなかった。

よくそのような状況でストックホルムに一人で出掛けようと思ったなと、ヤコブは不思議だったが、とにかく彼女が駅員と何かに関して意思疎通を図ろうとするも、うまく会話が成立していないことは明らかだった。

ヤコブは、家族の待つ自宅へ帰ろうとする最中。しかし、特に急ぐ理由は何もなかった。ヤコブは学生時代、日本に留学していたことがある。

咄嗟に彼女の近くに行き、日本語でこう尋ねた。

「どうしたのですか。私は日本語が分かります。通訳しましょうか。」

すると、彼女はヤコブを救世主と言わんばかりの眼差しで見つめ、

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、通訳していただけますか。」と言った。

彼女はほとんど意思疎通が図れないことに草臥れていたようだった。これで挫折しているようでは、この先が思いやられる。

彼女は今夜宿泊するホテルの最寄り駅への乗換に迷っていたようで、ヤコブスウェーデン語で駅員と会話をし、それを丁寧に日本語に翻訳して彼女に伝えた。

「ありがとうございます。本当に助かりました。このままホテルに到着できなかったから、どうしようかと。感謝しています。」

彼女はいかにも心がこもったようなイントネーションでヤコブにお礼をした。

「礼には及びませんよ。私が日本にいたときも、多くの日本人に助けられました。日本人はとても優しいですね。」

「あなたは日本に住まれていたんですね。驚きました。異国の地でこんな出会いがあるなんて。偶然の出会いですね。」

まったくその通りだとヤコブも思った。スウェーデンで日本人を見かけることはめったにない。こんな風に日本語を母国で話すのも久しぶりのことだった。

その後、2人はそのまま同じ電車に乗った。ヤコブの自宅がある方向と彼女のホテルがある方向が同じだったからだ。2人は車内でいくつか会話をした。彼女は長いフライトで随分疲れ切った様子だったが、英語やスウェーデン語ではなく日本語で会話ができるヤコブに対して親近感を抱いていたようだった。つい数十分前に出逢ったばかりなのに、2人はまるで長い友達のように心地よい時間を車内で過ごした。彼女は、麻子という名前の女性だった。歳は二十代後半で、東京の専門商社で事務をしていた。そのとき彼女には一人の婚約者がいて、もうすぐ結婚の予定が決まっていた。

ヤコブは彼女の口から語られる様々な事実について、どこか悔しさを感じた。ヤコブには二つ下のノルウェー人の妻がいるし、二人の小さな子どもだっている。僕は何を求めているのだろうとヤコブは思った。まだ出逢ったばかりの女性が婚約していて、もうすぐ結婚するという事実に対して悔しさを感じるだなんて。

実際、麻子はヤコブのタイプの顔でもなかったし、特段何か強く惹かれる部分があったわけでもない。しかし、麻子と隣合わせで座っていると、日本に留学していたときのことを強く思い出した。あれは今から10年以上前のことで、ヤコブはそのときひどく強烈で、後戻りのできない恋をしていた。結局、その恋は一つも実らなかった。思いを伝えたが、あなたはいずれ近いうちに母国に帰ってしまうのだから、私はあなたと付き合うことはできないと言われたのだった。

妻と結婚して以来、過去の恋愛について考えることなど一度もなかった。ヤコブは妻との関係にとても満足していたし、二人の子どものことも深く愛していた。しかし、心のどこかで彼は日本に留学していたときに好きだった彼女のことを忘れられずにいたのだろう。それはまるで冷凍庫の奥にひっそりと残っている賞味期限のとっくに切れた冷凍食品のように、たしかにそこに存在はしているが、長い間手に触れられてこなかったもののようだった。

久しぶりに会話をした日本人である麻子が彼の心を再び揺り動かした。ヤコブはかつての実らなかった恋を反芻しようとしていた。彼はあの東京の街で吸った薄汚い排気ガスの混じった空気とともに、彼女のとびっきりの笑顔を今でもやはり克明に覚えていた。それは結局、この先何十年経ってもやすやすと忘れることのできないであろう鮮明な記憶だった。

麻子が降りるべきT‐セントラーレン駅が近くなると、ヤコブは彼女に「麻子さん、そろそろ降りる準備をしないと。」と言った。それは幾分名残惜しさを含んだトーンで、おそらくその感情は麻子にも伝わっていたことだろう。

「本当にありがとうございました。言葉が通じるかどうかはやはり不安ですが、楽しい旅行にします。ヤコブさんも素敵な土曜日を。」と麻子は笑顔で言った。

ヤコブは「麻子さんも、素敵な土曜日を。ストックホルムを楽しんでください。Adjö!(アデュ)」と返事をした。

ホームでベルが鳴り響き、麻子は日本から持ってきたであろう大きなトランクのキャスターの音をごろごろと鳴らしながら電車の外へと歩いていった。電車を降りると、彼女は一度こちらを振り返って、お辞儀をした。ヤコブは、あらためて日本人は律儀だと思った。

電車のドアが閉まると、ヤコブはなんだかとても空虚な気持ちになった。晴れやかでからっとした春の空気が突然、湿度の高い雨空の下で吸い込む空気に変わるように、彼を取り巻く空気は一瞬で大きく変化していった。

彼はこの数十分しか一緒にいなかった彼女のことをその後何度も考えた。日本人にめったに会うことのないこの街で、彼は突然に日本から来た英語もろくすっぽに喋れない女性の手助けをした。そして、その過程で日本に住んでいた頃に想いを寄せていた女性のことをふと思い出した。それは彼にとって、長い間思い出すことのない記憶だった。いや、思い出す必要すらない記憶だった。

そのかつての記憶―それはヤコブがまだ若くて、世の道理や宿命など何も知らなかった頃の記憶だ―を思い出すたびに、彼は自分の胸がひりひりと痛むのを感じていた。彼はあのとき、あまりにひどく人を好きになりすぎていたのかもしれない。あるいは、それはあまりにアンバランスで不相応な恋だったのかもしれない。

日本に留学していたとき、ヤコブはひどく恋をしていた。その相手は日本人で、しかしその恋は決して実らなかった。彼は異邦人で、結局は母国に帰る部外者でしかあり得なかった。麻子を手助けしたとき、彼はかつての記憶をありありと思い返すことができた。それは彼がまだ若くものを知らなかった頃に日本で感じた現実であり、そのとき彼が強く求め、彼に与えられた結果に他ならなかった。

ヤコブは今日もソルナ・セントラムを通り過ぎる。駅名が書かれた看板を見るたびに思い出す記憶。本当はあの日だって彼は、心の底では誰かの存在を強く求めていて、かつて果たされなかった願いが叶う日が来ることを待ち望んでいた。たとえ、それが今の現実の幸せを一瞬で奪い取ってしまう、悪魔のような存在であったとしても。