Prune.

好きなことを好きなだけ。

巻き戻しをするということ/Rewind to change something

巻き戻しとか、巻き戻すという言葉をふと耳にして、なぜ僕たちの日々は(時間は、あるいは、人生は)巻き戻せないのだろうと思った。

小沢健二は「流動体について」で「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら」と歌い、過去のある時点において別の選択(間違いとしての選択)をしていたのならという仮定のもと、同時並行の別の人生の可能性をほのめかしている。

本来的に、僕たちは生まれたときから、あるいは、僕たちが生まれる前からも時間を「巻き戻す」ことはできず、ずっと文字が左から右へ流れるように、直線的な進行を続けている。例えば、あなたがあなたの両親から生まれてきたことも決して巻き戻して改変することはできず、あなたが今通っている大学に合格したことを巻き戻して、不合格にすることもできない。

この不可逆性、時間の巻き戻しはできないということは何を僕らに伝えるだろうか。

ただ、同時にこんなことも思う。

同時並行的にあり得た、見知らぬ他者との生活や愛情、友情は実は存在していて、ただ不可視になっているだけだとしたら。実は未来として規定されている「明日」はかつての時間の再演だとしたら。こんなあり得ないことを考えることに意味があるのかどうかはわからない。

しかし、これらのことを考えること―つまり極めて非現実的な内容を思考するということに同じだが―は、時間の不可逆性、巻き戻しの不可能性という意識をさらに強固なものとすることに寄与しているのは確かだ。

巻き戻したいことがあなたにはあるだろうか。僕にはいくつかある。僕たちは、巻き戻せないことを知っていてそれでもなお、巻き戻しが可能なのではないか、時間は未来という方向に向かって一直線に進行していないのではないかと思うかもしれない。「巻き戻し」への絶え間ない欲望は、この先の未来の人々もきっと変わらず、そしてそれは永遠に叶わないだろう。けれど、それくらい信じてみたって良いかなと思ったりする。不可能なことを不可能だと断言する確実性もまたないのだから。

For All Time、あるいは、さよならなんて云えないよ

大学4年生になった。大学であまり知り合いに会うことも少なくなって、代わりにまだまだ初々しい3年生を目にしたりする日々。

自分が大学1年生だった頃を思い出してみる。あの頃と比べて、どんなことが変わって、どんなことが進み、また逆にどんなことが後退しただろうか。

僕が好きなMichael Jacksonの曲に「For All Time」というものがある。日本語訳すると「永遠に」という意味になる。永遠なんてあり得ないし、この世に永遠なるものは一つも存在しない。けれど、なぜ永遠という言葉があるのだろうか。

それは、人が永遠なるものを飽くことなく求めているからではないか。そうでなければ、永遠なんて言葉はきっと世界に存在しなかったはずだ。それがForeverであれ、永遠であれ、Toujoursであれ、何でもいい。永遠という概念、そしてその言葉があることが大切なのだから。

初々しい学内の3年生を見て、そして街中で見かける大学1年生らしきを目にして、彼ら/彼女らにも永遠などないことを知る。いずれ大学生活は終わり、社会人として、家庭人として、何らかの形で別のライフステージを歩み始める。

ライフステージが変化することを「美しさ」や「清々しさ」だけで表現するのは間違っていると思う。ライフステージの変化には、必ず「切なさ」や「別れ」がつきものであるから。

僕らは結局進み続けなければいけない。それは、否応なく迫りくるものだ。そして、それは「私」に向けられているだけでなく「社会」にも向けられている。むしろ、「社会」に向けられたその眼差しが、その流れで「私」にも向けられていると言ったほうが正しいかもしれない。

様々な美しいこと、楽しいこと、素晴らしいこと、素敵なことが詰まった記憶を咀嚼し、再解釈し、胸に刻むことを僕たちはしなければいけない。その記憶は永遠ではないから。

こんなことを考えていると「さよならなんて云えないよ」という小沢健二の曲も思い浮かぶ。やっぱり、そう。さよならなんて"云えない"のだ。でも、永遠はない。いずれ"さよなら"しなくてはいけないことは沢山ある。どんなに美しかろうと。どんなに永遠であるべきことだと、思っていたとしても。

僕は「For All Time」を望み「さよならなんて云えないよ」と云う。

しかし、それは"絶対に"叶えられない。でも望んでしまう。なんて馬鹿だろう。

ちぎれた夜に、暮らしと意味について考えたこと―そしてそのループ

「暮らし」とはなんだろうと思う。

暮らしていくこと、生きていくこと、これはある意味では同義だと思うし、またある意味では違うような気がする。生きていくことは、もっと個人的な問題で、暮らしていくことは、より他者との関わりに重きがおかれているような気がする。

岡村靖幸の「ちぎれた夜」という曲を聴きながら、そんなことを思った。

この曲には「暮らし」という言葉が何度か出てくる。一人暮らしをしている僕は、たしかに"暮らして"はいるけれど、それはなんだか僕が思う暮らしとは違う。

暮らしって、もっと誰かと何かをしたり、誰かと何かを思ったり、そういう誰かが入り込んでくるようなものだと思う。それは家族だったり、夫婦だったり、子どもだったり。

東京という大都市に一人で住みはじめて、もう何年も経つけれど、この街の暮らしとは何なのだろうと思う。沢山の人たちがそれぞれ生活を営んでいる。みんなが暮らす街には、どんな意味とドラマが潜んでいるのだろうと思う。

生きることに意味を追い求めるということ、あるいは、暮らしていくこと、進んでいくことに意味を追い求めるという態度、それ自体そもそも正しいのかは分からない。

生きていくことにも、暮らしていくことにも、前進することにも意味なんて本当は一つもなくて、けれども僕たちはそれをこなしていかなくてはいけないのかもしれない。

意味があるからやる、だとか、意味がないからやらない、というのはとても狭い僕たちの閉じ込められた考え方にすぎないのだとしたら、意味を追い求めることはもうやめにしようと誰かは言うだろう。

僕は今、食べる。僕は今、本を読む。テレビを見る。誰かと会話する。人と離れて寂しくなる。将来のことを考える。よく分からなくなる。

Flipper's Guitarは「きっと意味なんてないさ」と歌っていた。有意味性、あるいは実利性に過度に追い詰められている僕たちは、もしかして彼らのように「きっと意味なんてないさ」と今こそ言い放つべきなのかもしれない。

なんにも意味なんてない。ただ時間は流れていくし、その時間に逆らうこともできない。まるで漱石の「則天去私」のような考えにも思えてくる。

でも、今ここに存在することに有意味性を見いだせなくなったら、きっと僕らは狂ってしまうだろう。けれど、僕らはその前提を捨て去るべきかもしれない。有意味性など、元々"ない"と。

この先の将来に(僕が思う)本当の意味での「暮らし」があるのだとしたら、そこに意味はあるだろうか。僕らは何かを拡大させ、何かに貢献をして、何かのために働く。その何かは意味にほかならない。僕らは結局意味ばかり求めて、その意味のために生きているのだから。

僕らの「暮らし」に意味なんてものがあるのかは結局分からない。

けれど、僕は意味があると思いながら、その意味をやっぱり追い求めたいと思うし、意味のある「暮らし」を営みたいなと思う。あなたはどうだろうか。

そんなことを考えて、今日も一日が終わる。

意味は宙ぶらりんで、どこかへと正しく繋がれることを望んでいる。けれど、それはまだまだ遠い先になりそうだ。