Prune.

好きなことを好きなだけ。

いつのまにか眠ってしまって起きたら2時だったりするそんな夜に

いつのまにかベッドの上で眠ってしまって起きたら2時だったりした。夜から夜へ。変わらない時間の中を移動するような感覚。朝目を覚ますのとは違うこの感覚。何かの始まりが見えない、どこまでも水平線上で代わり映えのないような現状を傍観するような気持ち。夜から夜への移動はそんな感覚だ。

「いつのまにか眠ってしまって起きたら2時だったりするそんな夜に」は、音楽を聴く。あるいは本を読む。マンガを読む。今日だったら、ブログを書く。ちょっと最近好きなものについて書いてみる。誰かが面白いと思って読んでくれたら、こんなに嬉しいことはない。結局、誰かに読んでもらいたくて書いていたりする。

YUKI」の音楽とポジティブへの羨望

最近(元JUDY AND MARYの)YUKIの楽曲を聴くようになった。今までYUKIといえば、2014年にリリースされた「FLY」のアルバムに入っていた数曲を聴くくらいだったんだけど、最近しっかりと聴き始めた。それで今の気持ちは「あれ、なんでこんなに良い曲今まで聴いてこなかったんだろう。」っていう。YUKIの音楽をたくさん聴きながら、歌詞を読んだり、YUKIのラジオを聴いてみたりした。そこで分かったのは「ああ、YUKIっていう人はネガティブで苦しいことの意味を知りながらも、ポジティブに生きている人なんだな。」ということだった。

僕はポジティブな人には2種類いると思っている。1つは、辛いことや苦しいこと、酷いことから目を背けてポジティブになっている人。つまり現実を直視することを拒否して、楽しさだけ掴み取ろうとしている人だ。もう1つは、そういう苦しみや辛さに正面から向き合いつつも、ポジティブであることを選択している人だ。

僕はYUKIは後者の人なのではないかと思う。彼女の言葉とか、音楽からはそういう空気感がすごく伝わってくるように感じる。

後者の形のポジティブで生きることってすごく難しいし、大変なことなのだと思う。いうならば「酸いも甘いも噛み分ける」っていうことなんだから。

僕自身は結構ネガティブな方なので(昔からそうだったかなと思うとたしかにそうだったような気もするし、でも最近その傾向はさらに強まっているような気もする)そういう意味でポジティブな人にはすごく憧れがある。だからYUKIのような生き方とか考え方がしたいなと思う。そして多分、それは人生とか自然に対する肯定だし、他者に対する全肯定に繋がっていくような気がする。

YUKIって、今45歳なのに僕はすごく若いし、可愛いし、素敵だなと思うんだけど、おそらくそれは彼女自身が辛いことがあってもそれを受け入れた上で前に進もうとするポジティブさをもった人だし、同じくらいいろいろなことにひたむきで一生懸命な人だからではないか。内面からの美しさとか綺麗さというのが本当にあるのかどうかは分からないけれど、もしそれがあるとするならばYUKIはそういう人なんじゃないかな。

そんなこんなで今一番したいことは、YUKIのライブに行くこと。今年の前半にアルバムツアーがあったみたいで、もっと早く聴き始めていれば良かったなと思うんだけれど仕方がない。次のチャンスを狙うしかないね。

YUKIで特に好きになった曲をいくつか貼っておくことにする。備忘録的に。 

「66db」

▲一聴したときにBaths的な雰囲気を感じた。多分、このミニマルな感じと電子音の所為だと思う。ミニマルな分、YUKIの綺麗な歌声が際立つ。歌詞も視点というか世の中の見方が素敵だと思う。 

「波乗り500マイル(feat. KAKATO)」

▲前の「66db」とは対照的にとてもポップなトラック。MVを見たときに思わずTOKYO HEALTH CLUBのアレかよって思ったけど。いや、YUKI元気だなあ…笑

「うれしくって抱き合うよ」

▲これは歌詞が肝だと思う。よく読みながら考えると、ああ多分そういうことを歌ってるんだなって思うんだけど、すごく根源的なところを言語化していると感じる。「うれしくって抱き合うよ」っていうタイトルがまさにその原初だし。僕と君を繋いだ「ハレルヤ」っていう合言葉もなんだか良い。

岡崎京子」が描いてきたもの

YUKIとならんで最近気に入っているのが「岡崎京子」の作品だ。岡崎京子は、90年代を代表する漫画家。僕が好きなミュージシャンの小沢健二と親交があり、それをきっかけとして読むようになった。彼女は人気絶頂の1996年にひき逃げに遭い、その事故によってそれ以降作品を描けなくなった。今でもリハビリ中ということで、以降表舞台で目にする機会は無くなってしまったのだけれど、それでも彼女の描いた作品は今日でも色褪せない圧倒的な存在感を発揮していると僕は思う。

岡崎京子の漫画は、文学的であったり映画的であったりするといわれている。それはカットの仕方であったり、取り上げるテーマと感情表現の巧みさが理由だと思う。

例えば彼女は「pink」で「愛と資本主義」を「リバーズ・エッジ」で「愛と暴力とセックス」を描いている。それは在り来りなテーマであるかもしれない。けれど、それを巧みに描く能力について彼女は秀でている。やはり作品に漂う空気感は90年代の空虚感であったりして10年代の今とは違ったりするんだけれど、それを含めてよくできた「世界観」だ。

岡崎京子については、まだほんの少ししか読んでいないのでこれから色々読んでいって、もっと語れるようになったらここで書こうと思う。「岡崎京子について語るとき僕の語ること」というタイトルになったりして。

「東京」を眺める、あるいは、東京の街が(人と)奏でる

最近東京タワーとか高層ビル群を見る機会がたくさんある。高層ビルの真下の道路にたくさんの車が連なり、渋滞している。巨大な高層マンション、誰が住んでいるのか分からないけれどそこで生きる人たち、そしてそこにある家庭を想像する。暗い夜の街のなかでぽつぽつと光る建物を見て、ああ、あそこにも人がいるんだなと思ったりする。

地方出身の僕にとって「東京」は大都市だからこそ、人の姿とか他者を多分に感じさせる場所だと思う。高層ビルの上から「東京」を眺めたとき、そこにはどこまでも続くように見える(見せてくれる)水平線があって、この巨大な都市で僕が出逢える人とか仲良くなる人、好きになる人はとっても限られていると思ったりする。誰かと誰かが出逢って、都市で時間を共にしていくことはすごく奇跡的なことだし、そこで滞りなく人々が暮らしていけること、あるいは、生活を育んでいけるということはとても大事だし、愛でるべきことではないか。

「東京の街が奏でる」という言葉に一言足して「東京の街が(人と)奏でる」と書いてみた。システマティックに見える街は、やっぱり人を欲していて、東京の街が綺麗に見えるのは人がいるからだと思った。

僕が「東京」を眺めるたびにそれは違った景色を僕に見せる。気分屋の猫みたいに。でもそんな気分屋なところがなかったら多分僕は飽きてしまう。気分屋の猫みたいな街、東京。

言葉で伝える / 伝わるということ

この人はどんな風景を見たのだろう、だとか、この人はどんな思いをしたのだろうと思う。目の前で向かい合って話を聞いていても、言葉から伝えられるその風景や思いは、リアリティを欠く。むしろ純度の高いリアリティを求める姿勢自体が間違いなのかもしれない。

言葉から構築される風景や思いは、僕が作り上げるものだからだ。

例えば、沖縄で見た美しい風景について僕に話してくれる人がいたとして、その言葉から僕が想像する風景は僕の過去の経験に依存する。

僕が沖縄に行ったことがあれば、それは過去の僕が沖縄で見た景色と限りなく近いものになるかもしれないし、逆に沖縄に行ったことがなければテレビ越しで見た括弧付きの「沖縄」を思い浮かべるかもしれない。

言葉で何かを正確に伝えることには限界がある。相手の言葉から思い浮かべたそれは、僕が作り上げる想像の産物でしかない。

だけれど、僕はそれがとても悔しいと思う時がある。

全力の想像力をもってしても、僕は今向かい合っているその人が見たであろう美しい景色や思いを100%で受け取ることはできない。その人がどんなに僕にその美しさを伝えようとしても、それは正確には届かない。その人が感じた美しさは、その人の感性が引き起こした美しさであって、僕の感性が引き起こす美しさとは違うからだ。

距離は近くても、どんなに相手の心を知ったつもりになっていても、それは他者でしかあり得ず、どんなに万能な言葉を使い、的確に表現しても、デコーディングには限界があって100%は伝わりきらない。

そんなことを思うと、ちょっと悔しい。いやとても悔しい。同じものを共有しているつもりが、どこか別々のほうを向いているような、そんな感じがするから。

筋書きのない深夜の考えごと

何か書く。書きたい。でも書くことがない。そういう気持ちでこのブログを書いている。書くという行為にだけ力を注ぐなら、中身はどうでも良いと言えるのだろうか。書くことはあくまで「書く」行為であって、その中身まで保障されたものではない。意味を成していなくても、何か文字を表すだけで良いのなら、それで十分書いたと言えるだろう。でも、せっかく書くのなら何か面白いこと、意味のあること、伝えるだけの価値があることを書きたい。そんなことを思いながら、何か良い話はないか考えている。書きながら考える、そういうタイプなのかもしれない。

大学帰り、スーパーに立ち寄って夜ごはんを買う。美味しそうな食べもの―実はそれは毎日何度も目にしている、似たような代わり映えのしない食べものであるということを推し量ることができる人たちは恐らく僕と同じような境遇にあるのではないか―が並ぶスーパーをぐるぐるすることは案外楽しいことだ。最近は健康的な食べものを買おうと心がけているのだけれど、いつもそうであるとは限らない。やはり食欲をそそる食べものというのは大概高カロリーだし、身体に悪い。唐突にラーメンが食べたくなるようなその食欲は、もう魔術的な存在と言っても良いくらいだ。美味しい食べものと健康な食べものは必ずしも等号の関係にならない。その中でうまい具合に食べものを選び、そしてそれを家に持ち帰らなければいけないのだ。寿司とか買ったら、家に帰ってくる頃には逆さになってたりしてね。それはもう、悲しみでしかない。

今僕はパソコンで文章を打っている。そのパソコンの画面の向こうにはテーブルがあり、オレンジジュースとアップルジュース、そしてジャスミンティーのパックが並べられている。あと、2リットルの水。飲みものを選ぶことはとても大切なことだ。そして、美味しい飲み物を選ぶことは、食事の充実度を大いに変化させる。もし食事充実度バロメーターみたいなものが存在するなら、間違った飲みものを選んだら食事の魅力は半減してしまうだろう。食合せが大切なら、飲み合わせも大切だろう。

ちなみに、オレンジジュースはトロピカーナより、ドールの方が美味しいというのが僕の結論だ。アップルジュースはまだ決め兼ねてる。ジャスミンティーは、セブンイレブンのが一番手頃でそこそこ美味しい。水は、前はいろはすが好きだったが、最近はそうでもない。

今聴いている音楽は、キリンジの「雨を見くびるな」という曲。

雨を見くびるな

雨を見くびるな

  • KIRINJI
  • ロック
  • ¥250

この曲はなかなか良い曲で―良いという言葉で全てを済ませることにすれば、全ての物事は良い・悪いの二者で簡単に決められてしまうから、あまり望ましくはないかも―かなりおすすめしたい。おそらくキリンジが好きな人は、渋谷系もいけるし、冨田ラボとかも聴いちゃうだろう。好きなものを掘り下げていく過程はとても楽しい。浅いところから深いところへ潜っていく感覚はなかなかのものだ。

小沢健二もやっぱり良い。最新作「フクロウの声が聞こえる」のカップリング曲である「シナモン(都市と家庭)」が最近のお気に入りだ。僕はこの"都市と家庭"という言葉にすごく惹かれる。都市のダイナミズムとそこにある家庭の存在。暖かく、エネルギッシュというよりはリラックスできるような空間は都市にどんな意味をもたらすのか。都市の中の(理想的な)家庭は既に崩壊しつつあるかもしれない。対立が広がり、仕事との両立の中で軽視され、理想的な家庭というイメージにがんじがらめにされて。都市と家庭、都市の大きなギアの中に存在する家庭はどうあるべきなのか。小沢健二はそういうことを考えているのかもしれない。大きな問題、例えば人口減少だとか福祉だとか、ポピュリズムだとか排外主義だとか、そういうことよりも先に、僕らの前に確実に現れるのは家庭だと思う。その機構が都市の中でどうあるべきなのかはもっと考えていかなくてはいけないことなんじゃないかなと思ったりする。

あと数日で10月の雑踏に足を踏み入れる。秋になり、ハロウィーン、そしてクリスマス。目白押しのイベントを控えながらも、もう今年は3ヶ月しかない。秋が終わって冬が来て、ちょっとしたら春になる。次の桜が舞う季節には4年生だなんて。想像したくない。でもその足音は着実に聞こえてくる。

「さよならなんて云えないよ」という曲が頭をよぎる。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる、僕は思う、この瞬間は続くといつまでも」本当に僕はそう思いたくて仕方がないのに。