Prune.

好きなことを好きなだけ。

Twitterのはなし: それがどう「良い」か書くべき?

Twitterに音楽を投稿したり、料理を上げるとき、どんな言葉と一緒にアップしようかいつも悩む。

そして僕は大抵そこに、"良い曲"とか"美味しかった"とか当たり障りのない言葉をくっつけてアップするんだけど、たまにもっと細かいことを書くほうが良いのかな、と思うときがある。これじゃあ、語彙力が低すぎて、何にも伝わらないかな、なんて思って。

でも、"ジューシーな肉汁が溢れ出るようなハンバーグで、チーズが口の中でとろけて美味だった"とか、"ギターのカッティングが小気味よく、圧倒的なグルーヴを成している名曲"とか書くと、なんだかうーん、ちょっと違うかなという気持ちになる。

結局、Twitterのタイムラインってすごく私的なつぶやきが集まっていて、プライベートな空間と思いきや、総体としてはパブリック(公的)な場所だと僕は思う。だから、その場所での発言にどれくらいのカオスが許されるか、というのは少し考えなきゃいけないことのような気がする。

専門家なら、専門のことをいくらでも語っていいけれど(例えば、行政学者のTwitterなら豊洲問題とか森友学園について存分に書いて良いと思う)果たしてそれを一般の人がツイートしまくっている場合、どれくらいフォロワーさんはそれを期待しているのか、と考えてしまう。

パブリックなメディアであるなら、やっぱりその求められているものとそうじゃないものとの過度な乖離は避けなければいけないのかな、とも思う。

もちろん、Twitterは個人の自由な発言の場所だから、いくらでも好きなことを書いて良いのかもしれない。別に"肉汁が溢れ出るハンバーグ"のことや"グルーヴが効きまくっている音楽"のことをいくらでも、何度でも、書いて良いのかもしれない。

でも僕は、そういう類のことは割とブログに書くようにしているし(Twitterはタイムラインだから意図せず見てしまうこともあるだろうけれど、ブログは見たいという意思が無ければ基本的にクリックしないはずだから)だからこそブログでは好きなことを長々とイライラさせるくらい書いても良いのかな、と思っているのだ。

黙って好きなことを書くのが、結局一番楽だし、楽しい。それは分かっている。

でも、Twitterに何かを書くってそういうイメージ、という固定観念がどうも上手く離れないのだ。

「報われない」物語の美学

世の中には、報われる物語と報われない物語がある。

報われる物語は、辛いこと、苦しいことがあっても最後には主人公が明るい笑顔を取り戻し、幸せを得る話。一方の報われない物語は、辛いこと、苦しいことの末、待っているのは究極的な終わりだけ。

みんなどっちの物語が好きなのだろう。

一般論として、子供向けの物語には報われる話が多く(ただイソップ童話には割と辛辣で報われないものが多いような気がするけれど)文豪と呼ばれる人たちの物語には、報われない話が多いように思える。

世の中には、報われない、救いようもない悲痛な話もたくさんあって、そう考えればリアリズム的で報われない話の方が正しいような気もするが。

けれど、せめて物語の世界では夢を見たいのに、そこで報われない現実的な話を見せられて、がっくしということもまたありそうだ。

報われない物語の良いところは、報われる話より「美学」という点から見れば美しく見えるということ。美貌の上、何でもかんでも成功する人物が再び成功する物語を見せられても美しくない一方、美貌でもないが努力した結果、やはり成功しないという救いようのなさには美しさすら感じる。

坂口安吾も「文学のふるさと」で救いのない生存の孤独が文学を文学たらしめるといった趣旨のことを述べていたけれど、文学などの物語は常にモラリティへの対抗という背徳性をもとに、美しさを獲得してきたところがあるのではないか。

物語における圧倒的な美しさは、救いようのなさという土壌にあって初めて醸成され得るし、そのことを報われない物語は知っている。報われない物語の報われなさにみんなは感涙したり、美しいと思ったり、綺麗と感じたりする。

そして現代でも度々使われる「かわいい」という言葉もかつては、現代での「かわいそう」の意味を持っていた。そして、僕はこの時代においてもかわいいという言葉は、無垢であるとか、穢れないとか、どうしようもない救いようのなさといった、ある種のかわいそうな要素を内包していると感じる。かわいいという一種の美しさを示す表現でさえ、その内部にはかわいそうな報われなさを隠し持っているように思えるのだ。

だから、僕は美しさと報われなさは繋がっているのだと思う。

家事についての考察: 生活を繋ぎ止めるための「家事」

「家事」って面倒だ。掃除、洗濯、料理、ゴミ捨て、風呂掃除...苦行だ。

何を好き好んで、ゴミ袋の無くなるタイミングを見計らってゴミ袋を買いに行って、売り場で5L、20L、40Lの違いに悩んで、どれを買おうとか、考えなければいけないのだろう。ちなみに、東京23区内はゴミ袋を買わなくて良いらしい。お金のある自治体、という存在に嫉妬したくなる。

このゴミ袋を買うこと然り、掃除機をかけること然り、洗濯物を取り込んだりすること然り、これらの一般的な家事は終わりを一向に示さない。

暫くすると、すぐに次の機会がやってきて、また同じことの繰り返しなのだ。家事は、サグラダ・ファミリアか、と突っ込みたくなる。

にしても、不断かつ永続的な努力をもってしてはじめて成立する「家事」をもっと世の中の人たちは重要視する必要があると思う。

結婚していて、奥さんだけが家事をやっているとしたら、それは相当な苦労だし、立派な労働だ、というのが俺の見解。外で働くのと比べたら云々、という話をする必要はない。家事は立派な労働。

それじゃあ、なんで家事をやんなきゃいけないのっていう話になる。

そりゃまあ、家事をしないと家がゴミ屋敷になったり、部屋が異臭を放ち始めたり、健康で文化的な生活が営めなくなるから、でしょうと。

でも、それ以上に家事をすることって、それ自体が生きることとか生活を営むことに直結するというか、イコールになる気がする。

村上春樹の小説について書評するときにコラムニストの内田樹が言っていたけど、家事をするのは、あっち側の(悪魔的な)世界へ人が連れて行かれないようにするため、なのかもしれないと自分自身も最近よく思う。

あっち側の世界っていうのは、いわばパラレルワールド的なもので、でもそのパラレルワールドは、決してユートピアみたいな幻想的な世界ではない。限りなくディストピア的で、多分邪悪。ゴミ屋敷に住んでいる人っていうのは、そのディストピアに近づいている、あるいは、ディストピアに侵された人なのではないか。

毎日の定期的な労働=家事をすることで、社会とか現実世界と自分を取り持つというか、かろうじて現実世界で居続けることができる。でも、その家事をほったらかして、のんびり悠々としているといずれ、ディストピアに落ちてしまいますよ、と。

そう考えると、家事ってめっちゃ大切じゃん。俺がゴミ袋のサイズ選びに悩んでた時間とか、プラスチックゴミと燃えるゴミを分けてた時間とか、あれ大切だったんだ、ってなってなんか嬉しい。そういう気持ちになるわけです。

だから、家事労働をする人たちはもっと賞賛されるべきなんじゃないかな。ゴミ捨て頑張ったね、とか、お風呂掃除してくれたの、ありがとう、とか。そういうのがないと、みんな家事をしなくなっちゃうよ。

家事だからって見くびっちゃダメで、家事労働してくれる人がいるから、平穏に現実世界を生きられる的な。ディストピアに落ちないであなたの家庭がまわっていたり、一人暮らしの人がなんとか生き延びられるのは、そのめんどくせえ家事のおかげだと思いましょう。

そしたら、ほら、家事もいくらかやる気、出るでしょう。(寓話つくれそう)