Prune.

好きなことを好きなだけ。

雑誌"Tokyo graffiti"が照らす東京とは

皆さんはTokyo graffitiという雑誌を知っているだろうか。2ヶ月に一回発刊される定価480円のスナップ誌。性別や年齢層に関わらずライトに読むことができる雑誌だ。僕はこの雑誌が大好きなのだけれど、今日はこの雑誌の魅力について少し書いていきたいと思う。読者がこれで少しでも増えれば何より。

■芸能人を起用しないスナップ誌という魅力

Tokyo graffitiは芸能人をあまり多く起用しない。もちろん、芸能人が特集として紙面に出てくることはあるが、あくまで雑誌の主体は一般人だ。街中で見つけた素敵な人がこの本を彩っている。芸能人に関しても、所謂サブカルなどに造形が深い人物が取り上げられることが多い。最近では、二階堂ふみや青柳文子が取り上げられている。

僕はこの一般人を主体とする姿勢にこそ、この雑誌の真髄があると思う。今多くの雑誌では、いかに有名な芸能人を表紙にしたり特集することで部数を稼ぐかということにあまりに躍起になりすぎている気がする。例えば、何か映画やドラマの主演が決まるとあらゆる雑誌がその主演の芸能人でうめつくされたり。最近で言えば、広瀬すずが一時期多くの雑誌の表紙に出ていたのも記憶に新しい。(と言っても僕は広瀬すずが案外好きなので彼女を批判するつもりはない)ただ、これは雑誌のコンテンツ力で勝負するのではなく、その芸能人のネームバリューで勝負する行為にほかならない。小説の表紙だけをお洒落にして、中身は三流作家の駄作と言った具合だ。本はコンテンツ勝負でなくてはいけないのではないか。ただ、現実としてそのように芸能人を起用しなければ雑誌の売上が望めないほど厳しい状況に出版業界が置かれている現実もまた無視はできないのだ。 

■多様性を容認するTokyo graffiti

Tokyo graffitiという雑誌はある意味、特定の主義・主張を持たない軟派なメディアであるといえる。というのもTokyo graffitiは常に、これ、良いな。この人たち、良い感じ。という感性的な基準をもってコンテンツが選定されているように思えるからだ。雑誌を読む僕たちがこの雑誌に望んでいるのは、ロジカルなものではない。フィーリングを重視した、なんかこれ良いなという気持ちを刺激する雑誌、それがTokyo graffitiなのではないか。だからこそ、Tokyo graffitiではギャルやヲタクは勿論のこと、LGBTやマイノリティな人々を決して差別することなく平等なものとして受け入れている。軟派だからこそ、Tokyo graffitiは逆にブレない。常に良いものは良い、素敵なものは素敵だという完成でコンテンツを選んでいるのだ。だからこそ、Tokyo graffitiの多様性は半端ない。ある意味カオスとすら言える。しかし、そのカオスがTokyo graffitiの名に相応しく、東京の多様性を彩っているのだ。日本中、世界中から多くの人が集まってくる首都、東京の未来を形作る雑誌はまさしくTokyo graffitiなのではないか。

■フレキシブルな文化都市「東京」を形成するメディアとしての役割

日本はしばしば排他的だとか、頭が硬い国だと思われがちだ。しかし、グローバルな流れが進行していくなかで、東京をフレキシブルな文化都市として成長させることは必要不可欠だ。ここで言う、フレキシブルな文化都市とはあらゆる文化や人々を容認し、それらを融合していく社会のことだ。世界最大の人口を誇る東京圏が、世界の様々な文化や人々を受け入れることができる寛容さを手にしたら、ニューヨークなどを超えるような世界最大の文化都市を形成することも十分可能だと僕は思っている。現段階でも、丸の内のようなモダンなエリアから、浅草のような江戸情緒を感じさせるエリア、秋葉原のようなアニメ・ゲームなど新しい日本の文化を象徴するエリアなど数限りない異なった特徴を持つ地域を内包するのが東京である。

この東京がよりフレキシブルに世界都市としての地位を文化的に高めていくためには、それこそTokyo graffitiのような雑誌がもっとフィーチャーされるべきなのだ。僕はこの雑誌にこそ、東京のポテンシャルが隠れていると思う。多くの人が息づくこの街で多様な人間が個々の生活を日々営んでいる。その人たち、各々を取り上げ新しい文化を受容していくことこそが東京に今必要な姿勢だと僕は強く感じている。

リオ五輪で盛り上がる中、次の舞台は東京だ。4年後、東京はどんな姿を僕達に見せてくれるのだろうか。少なくとも僕はTokyo graffitiのような文化的に優れたフレキシブルな街、東京を目にしたいと心から願っている。

Tokyo graffiti(トウキョウグラフィティ) 2016年 08 月号 [雑誌]

Tokyo graffiti(トウキョウグラフィティ) 2016年 08 月号 [雑誌]

 

 

Travel Diary: UCバークレー留学記 (4) [日本に帰りたかったりする今日この頃]

ここ数日、やけに日本に帰りたくて仕方がない日々が続いている。前よりも英語はだいぶ話せるようになった気がするし、聞き取りも随分まともになった気がするが、帰りたさは何故か増していくばかりだ。

昨日は香港人のクラスメイトと日本料理店に行ったのだが、その友達も香港が恋しいと嘆いていた。毎日カレンダーを見て、あと何日残っているかカウントダウンしている話になり、自分と状況が同じで笑った。その友達はバークレーに来る前にオーストラリアに留学していたのだが、その時にそんな気持ちにはならなかったという。やはり国でも向き不向きがあるのだろうか。

さて、ホームシックとかそういう言葉を使うのは格好悪いが、事実僕は今そんな感じだ。渡米してから、日本の良さを実感する機会が本当に多かった。

例えば、僕が今毎日を過ごしているバークレーには自動販売機が路上にほとんどない。大学構内にはいくつか自動販売機があるものの(クレジットカードが使えたりするところは便利だ。ただ日本でもSuicaが使える自販機が多いので同じかもしれない。)種類が6種類くらいしかなかったり、紙幣を入れても両替しなさいと表示がされ、使えなかったり。値段も日本で150円くらいのものが200円くらいで売られている。

食べ物もそうだ。日本、とりわけ東京には世界各地からあらゆる食べ物が集結してくる。先週末、サンフランシスコ湾岸沿いの有名レストランに現地で知り合った友達とご飯を食べに行ったのだが、そのレストランが東京にも支店を構えていたことをあとから知り驚いた。サンフランシスコでしか食べられないのだから多少高くてもと思って食べたのだが、なんだ東京にもあるじゃないかと。東京は食べ物に関しては本当に何も困らない街だと感じた。むしろ東京にはチップ文化(米国では文化としてトータル金額の15%〜20%の金額をチップとして残していかなければいけない)がないから、東京の方が安く済むのではないかと思ったりもする。

橋についての話もしたい。先週末のサンフランシスコ観光で、ゴールデン・ゲート・ブリッジにも行ってきた。全長3kmの長い長い橋だ。夜に行くと景色はこんな感じ。

Golden Gate sunrise

一方、こちらは東京のレインボー・ブリッジ。長さはわずか800m。ゴールデン・ゲート・ブリッジと比べると遥かに短い。同じく夜の景色はこんな感じだ。

Rainbow Bridge, Tokyo

ゴールデン・ゲート・ブリッジの規模は巨大だし、東京のレインボー・ブリッジのようなバブル的な煌めかさはない。大人しいが、歴史を感じさせる赤色の橋だ。

ただ、どんなに規模が大きくても、歴史的でもやっぱり僕はレインボー・ブリッジが好きだと答えてしまう。人工的でスケールが小さいと言われても。この写真からは東京タワーが向かい側に見える。スカイツリーが建っても東京のシンボルは今でもやっぱり東京タワーだ。今僕がホームシック気味だからこそ、そう思ってしまうのかもしれない。でも虹色に輝く橋と高層建築物の間から見える東京タワーを見てしまうと、やっぱり東京は素敵な街だし、帰りたい場所だと思えてならないのだ。例え、東京が生まれ育った街ではないとしても。(事実僕は東京生まれでもなんでもない)

あらためて新宿、渋谷、銀座、丸の内、お台場、浅草、秋葉原…と数限りない魅力的なスポットをあれだけの近さで集結させた東京はすごいと思うし、都市開発や都市計画に興味がある自分としてはとても気になるところなのだ。

もちろんまだ僕自身がサンフランシスコの微々たる部分しかしらないから、そういうふうに思ってしまうのかもしれない。まだ4週間あるので、その間にサンフランシスコをもう少し巡ってみたいと思う。ただ最近は日本が恋しくて、日本食を食べに行ったり、日本の音楽を聴いたりとあまり活動的な気持ちになれないでいる…。せっかく渡米したのだから色々行かないと勿体無いという気持ちはすごく分かる。どうしようかと迷いながら、結局はこのブログを書いている。

Travel Diary: UCバークレー留学記 (3) [10日間過ごしてみて感じたことを書いてみた]

課題が少し落ち着いてきたので(と言ってもあまりきついコースを取らなかったのでわりと余裕はある)バークレーカリフォルニア州の都市)で10日間過ごしてみて感じたことをとりあえず書いてみた。

 

■人種の多様さが半端じゃない

バークレーを歩いていると、あらゆる人種の人々と遭遇する。アメリカ在住の白人や黒人は勿論のこと、日系らしいアメリカ人や、バークレーへ留学に来ているアジア系の学生、ヨーロッパからの学生など本当にありとあらゆる人たちがいる。

そしてアジア系の中では中国からの留学生や中国系アメリカ人の数がとにかく多い。僕が取っているコースは中国からの学生が8割以上を占めているし、街を歩いていても中国語を耳にする機会は意外と多い。そして何よりも伝えたいことは日本人(ここでは日系人は含まない)が少ないということ。日本からバークレーに留学に来ている学生自体が少ない上に、日本語を耳にする機会が本当に少ない。というかほぼ皆無だ。

同じアジア系の言語でも耳にするのは中国語や韓国語だけ。むしろ韓国より日本の方が人口は多いのに、日本語を聞く機会がほぼないというのは日本人がそれだけ海外に来ていないということではないだろうか。

バークレーの施設ではホールや記念館に人物名がつけられることが多いが、中国系の名前を見かけることはあっても日本人の名前を見かけることは全くない。日本人としてこれはちょっと残念だ。

その結果、授業などでも中国語や中国が取り上げられることはあっても日本が取り上げられることはほぼない。せいぜい、Sushi(寿司)くらいのものだ。

最近日本人(特に学生)は内向き志向で海外に出たがらないと聞くが、その状況を如実に表しているように思えた。僕と仲良くしてくれている友達もほぼアジア系で、特に中国からの留学生が多い。だからむしろ英語でコミュニケーションが取れなくても自分が中国語を話せれば会話には困らないのではないかとさえ思ってしまう。もう少し日本からの留学生が増えれば良いのに…と思って仕方がない。

 

■日本人の英語力がヤバい

これは自分自身が身を持って体験したことだ。留学前にはEPR(The English Proficiency Requirement)といって自分の語学力を示す書類を提出しなければいけない。僕はTOEICバークレーのエントリー基準を満たしていたので無事留学ができたのだが、いざ現地に来ると英語が聞き取れない、喋れないで、もう大変だった。基準を満たしているにも関わらず、だ。もちろん簡単な会話などは問題ないのだけれど、話が込み入ってきたり、議論をしろとなるともう大変だ。日本語でも難しいような内容を英語で説明するのは極めて難しい。しかし、僕が話してきた多くのアジア人(中国や韓国、ベトナム人など)は明らかに大半の日本人留学生より英語が上手だ。いや、はっきり言えば僕が逢ってきた数十人のアジアからの留学生は全員僕より英語が上手だったし、普通に話せる人たちだった。仲良くなった中国からの留学生の女の子にIELTSというTOEFLと同じ4技能テストのスコアを聞くと7.5と答えてくれた。日本の大学生で7.5を取っているとすれば相当なレベルだと思う。少なくとも僕の周りではいない。

日本人はアジアでも、というか世界でもかなり英語が苦手とされているが、それをつくづく実感させられた。英語教育がダメだったというのもあるだろうし、日本語が英語学習にとってかなりのディスアドバンテージになっているということは否定できない。(カタカナ語の普及で正しい英語の発音とは全く異なる似たような言葉が沢山あるし、日本語と英語はそもそもSOV/SVOと文の構造が違う)にしても、韓国はハングルだし中国は漢字だ。

どうすれば日本人はもっと英語ができるようになるのだろうか。日本国内では幸いなことに英語をほとんど使わなくても生きていける(カタカナは英語ではないので)から、英語ができなくても今のところ困ることはそれほどない。ただもし日本経済が悪化したりして、日本企業が倒産し、シャープの例のように海外企業に買収でもされたら英語が社内公用化されることは十分あり得る。

そして東南アジア諸国はとりわけ英語が得意だが、それには母国語の情報量の差なども関係してくるようだ。つまり、母国語で得られる情報量が少なければ少ないほど、情報を得たり何かを学ぶために他言語を習得する必要性は高まっていく。幸い日本は、日本語だけでも(もちろん英語も使えれば便利だしより多くの情報が得られるのは明らかだ)かなり多くの情報を得られるし、文学作品やニュースを含めて相当な情報が翻訳されているので英語ができなくてもそれほど困らない環境だ。

その恵まれた環境ゆえに、日本人は英語がとりわけ苦手なのかもしれない。もちろん英語教育でミスったというのもかなり大きな理由にはなると思うけれど。

ただそれを自分の英語ができない理由として正当化するわけにはいかないし、やはり英語学習の必要性は痛感させられた。

 

■英語ができないと"会話"に入っていけない

これも実際に身を持って体験したことだ。週末に中国人と韓国人の友達と一緒にサンフランシスコ界隈を遊びに行ったのだが、アジア人が集まろうと会話での言語はアジアの言語ではなく、必然的に"英語"になる。中国語で話したなら韓国人と日本人の自分が分からないし、韓国語もしかりだ。日本語での会話ももちろん不可能。そうなると全員ノンネイティブのアジア人であっても英語を介してコミュニケーションをしなければしけない。学校や大学では英語はアカデミックツールのような扱いを受けているが、実際に海外に来ると分かるのは英語は学問のためのものではないし、テストのための言語でもない。やはりコミュニケーションツールなのだ。例え文法がめちゃくちゃでもとりあえず伝える意志が大切なのは言うまでもない。にしても、僕以外のアジア人の英語力が半端ないのだ。普通に何の苦もなくアメリカで暮らせるだろというレベル。もちろんノンネイティブスピーカーだから、各々訛りのようなものがある。中国人の英語は中国語訛り(中国語のアクセント感が英語にも現れる)だし日本人の英語はしばしばカタカナ読みのようになってしまう。それでもとりあえずは伝われば良いのだ。伝われば。

ただネイティブスピーカーにはアジア人の英語は聞き取りづらいようで、しばしば聞き返されたりする。特に発音が難しい単語などが含まれていると余計にだ。にしても何も話せないよりかはよっぽど良い。

その日は朝から晩までそのアジア系の学生たちと一緒だったのだが、少ないボキャブラリー力と会話力で1日を過ごすのは本当に大変だった。自分にも伝えたいことはある。言いたいことはある。それでもいざそれを英語に変換して話せと言われてもそう簡単にはいかないのだ。相手の言っていることはだいたい分かる。だから会話を聞いていればおよそ何の話をしているかは見当がつくのだ。ただその会話にどう割って入るか。

ただでさえ人の会話に割り込むのが苦手な日本人にとってはこれはすごく難しい問題ではないか。

もっと話せたら楽しいのになあ、もっと言いたいこと全部言えたら良いのになあと何度思ったことか。日本で英会話を大学の授業でやっているときは大抵の場合、相手も日本人だからいざとなったら、日本語で話せばいいのだ。英語で言いたいことが言えないジレンマはあるけれど、それは日本語というネイティブの言葉を介して解消することができる。

しかし、一度海外に出てしまえば状況は別だ。英語で伝えられなければもう終わり。相手の母国語を知らない限り、伝えたいことは伝えられない。ここが日本で英会話をしているときと海外で英会話をしているときの差だとつくづく感じた。母国語で難なくコミュニケーションが図れるありがたみを実感した。

 

■同じような料理に飽き飽きしてきた

前回の記事で寮での食事について書き、悪くない、割と美味しいと書いたが訂正する。既に飽きが来ている。10日ほど過ごしてみると、だんだん同じようなご飯に飽きが来るのだ。スクランブルエッグを何度食べたことか。むしろ卵よりケチャップが美味しいと思う今日この頃だ。この間はラーメンが並んでいて、やっと日本食が食べられる!と喜んだが間違いだった。ラーメンのスープが何故か味噌汁だったのだ。もう訳がわからない(笑) むしろファニーだとさえ言える。日本のラーメンは味噌汁ベースだと思ったのだろうか。ここでの日本食は完全にアメリカン・ジャパニーズフードだった。

昨日は久しぶりに日本食が食べたくなったので、バークレーの寿司屋に行ってきた。これで2,000円。(Tax+Tip込み)安いと考えるか、高いと考えるかはその人次第だが、気軽に食べにいける値段ではない。ただそれでも週一くらいで寿司が食べたくなる。久しぶりの味噌汁は身にしみた。

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 ■チーズが安い!チーズ好きはアメリカへ

これは余談的な話なのだが、アメリカはなぜかチーズが安い。近所のスーパーであるWalllgreenやTargetに行って大型冷蔵庫を見てみると多くのチーズが販売されている。僕はチーズが大好きなので、お店に行ってまとめ買いしてきたが明らかに日本より安い。これはアメリカの良いところだ。多分日本に入る段階で、日本の畜産業を保護するために高い関税がかけられているのだと思う。TPPが施行されれば話は変わってくるかもしれないが。個人的な感覚では日本の1/3くらいの価格というイメージだ。量も多いし、チーズに関しては文句なしでアメリカが素晴らしい。

 

■ありあまる学生の"積極性"を感じた

日本の大学の講義と比べてこれは"違う"と感じたのはやはり学生の積極性だ。日本での授業は基本的に教授が前に立ち一方的に教えていくというのが一般的だが、バークレーでは違う。学生の参加があってはじめて授業が成り立つというイメージだ。200人くらいで一斉に行う講義でも学生たちの声は絶えない。授業中でも分からないところがあると"I have some questions"と学生から声が飛ぶし、誰かの意見に反論があると反論がすかさず飛んで来る。積極性が日本のそれとはまるで違うのだ。日本では静かに何の質問も反応もなく授業が進んでいくことが多い。場合によっては沈黙さえあるくらいだ。しかし、アメリカではそんなことは起きない。少人数のクラスでも教授が指名しなくても自分から発言する人が多いし、少人数だろうが大人数だろうが発言の数は変わらない。どこでも積極的なのだ。そしてそれはアジア系が大半を占めるクラスでも同様だ。中国や韓国の大学もそういう雰囲気なのだろうか。アメリカの大学システムについて賛否両論はあるだろうが、この積極性溢れる姿勢は日本の大学や大学生が見習わなくてはいけない。

基本的に日本の大学の講義はつまらない。しかし、もし積極的に意見が飛んだり議論が起こる環境であれば、もっと楽しいものになるかもしれない。授業中に寝ている人が多いのも、眠いというより授業がつまらないからではないか。講演会ですら眠くなることが多いのに、自分が気に入っているわけでもない教授が90分淡々と話し続ける。眠気を誘わないわけがない。学生はもちろんのこと、教授も講義の仕方を考える必要があると思う。

日本人はシャイだし和を尊ぶ考えを持っているから(聖徳太子の十七条憲法にも"和を以て貴しと為す"と書かれているくらいだから、これは変えようがない。別に悪いことだと考える必要もないと思う。)アメリカのように直接発言する仕組みにしなくてもスマホを使って授業中に意見を回収するというのも面白いと思う。実際にバークレーではそれを出席とみなして、利用している講義もあった。

 

まだまだ書きたいことはあるが、そろそろ寮の食事の時間なのでこのあたりで閉じたい。今日こそは美味しい食事にありつけますように。