Prune.

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【超短編エッセイ】withコロナというポジティブさ

落ち込んだり、悲観的になったりすることが、過剰なポジティブ思考信仰によって忌み嫌われ、否定されたりする。これもある種のアメリカナイゼーションなのだろうか、様々な人たちが普通と思っていることが、実は文化的に構築され、輸入されたりしている可能性を考える。

コロナウイルスの蔓延は収まる気配がない。緊急事態宣言という名ばかりのレギュレーションを経験した僕たちは、それで事態が一旦は収まると思っていた(はずだ)。しかし、事態はそれほど甘くはない。というより、現実はいつもそうなのだ。

現実ほど恐ろしいことが起こる場所はない。文学や映画の世界でも恐ろしい、とんでもないことは起こるが、現実はそれ以上のことが平気で起こる場所だ。そもそも現実の想像力で物語は考えられているのだから、現実はそれを飛び越えるリアルさを持つはずだ。

コロナによって、僕たちは外部を消失しつつある。今ここから抜け出して、どこか遠いところや、自分の知らないところへ行くこと。それが外部へ飛び出るということだった。

しかし、全世界的にパンデミックとなっている現在、外部はもはやない。すべてが内部であり、そもそも外部があったとしても、外部への渡航は禁止されている。

人々が自らの住む地域に閉じこもり、あるいは、部屋に閉じこもり、友達と酒すらまともに飲めず、何かを表現することすら困難になっている。そして極めつけのマスクによって、他者の表情が隠蔽され、さながら僕たちはマスのなかの顔なき機械といったところだ。

僕たちを蝕んでいるのは、コロナウイルスによる医学的な問題というよりも、僕たちの社会を構成する基盤が崩れていくという問題なのだ。

一人で酒を呷りたくもなる。

しかし、こんな気持ちになっているのは自分だけではないはずだ。というより、かなりの人がこんな気持ちな気もする。そういった意味では、今般の閉塞感は全世界的かつ全世代的に共有されている、人類史上でも稀有な共通の感覚なのかもしれない。皮肉な話だけど。