Prune.

好きなことを好きなだけ。

【超短編エッセイ】コロナとある種のリアルについて

コロナ以前と以後で、圧倒的に変わってしまったことがある。それは街のリアルであり、世界のリアルだ。

僕たちが生活を営むまさしくその場としての都市、そしてあらゆるものやひとをつなげてきた世界が虚構化し、閉鎖されているということだ。

一見すると街は賑わいを取り戻し、多くの人が仕事に、娯楽に、様々な物事を楽しんでいる、そうした多様性が成立しているように見えるかもしれない。

しかし、私たちの都市、私たちの世界から決定的に失われてしまったものは、それらが成立しているかもしれないというリアルの鮮度だ。リアルがいかにリアルらしいかということ。

数年前に撮った東京や、世界各国の都市の写真を見ていたら、懐かしさだけでなく、そこにはたしかなリアルがあると感じられた。

あるいは、今僕がある種の虚構のゲームの渦中にいるからかもしれない。それは資本主義的なゲームであり、同時にライフステージと密接に関係しているとされるゲームだ。

そこでは意図しないタイミングに電話がかかってきたり、一喜一憂が発生したり、嘘と真実が脱構築されたような言説が溢れている。

いったい「私たちの都市」や「私たちの世界」はどこへ行ってしまったのだろうと思う。どの街も、どの国も元気がない。安全のための制御や規制。他者を思いやるという名のもとに行われる強制。(決して共生ではない)

たしかに安全は大事だ。しかし、私たちはリアルを守らなくてはいけない。この都市、この世界の主権者は私たちで、そしてそれは同時にそれらを創造するのも私たちだということを示してくれる。「都市への権利」はどこへ行ってしまったのか。

カーテンが閉められたマンションの一室の灯りは、たしかにそこに生活があり、それらの集合体として都市や世界が構成されていることをありありと示す。大きなシステムがあって、それによってすべて動かされているなんていう構造主義にはうんざりだ。

今、写真を撮ろう。都市や世界の。そうしたとき、私たちは何を見ることができるか。そこにリアルを感じられるか。あまりに技巧的なリアル。虚構性。そうしたものをいかにして取っ払えるか。