Prune.

好きなことを好きなだけ。

円環的な「消費する欲望」の当事者として + 商品で記号を纏うということ

近頃は、ミニマリストなどに代表される「本当に良いものを少なく持つ」という言説をベースに、そのような生活を実践している人が多いような気がする。

僕自身も、最近たくさんものは買わないけれど、その代わりにとびきり良いものを買うという消費の在り方も理想的なのかなと思ったりしている。

しかし、それはそう簡単に叶えられるものではないだろう。一度街に出てみると、一度Amazonを開くと、そこには幾多の誘惑が隠されているからだ。

例えば百貨店に行けば、質の良さそうなもの(本質的に質が良いかどうかは別問題だ)やブランド品が並ぶ。それらは当然高い。それらが欲しくて堪らない人も少なくないだろう。

街を歩けば良さげな衣服やバッグ、靴を履いた人を多く見かける。何気なく目を向けた先の人が着ていた服は普通に高価だ。もしかすれば、10万くらいしたかもしれない。彼女が何気なく持っているあのバッグだって普通に高いのだ。

もう街に出れば、全ては誘惑である。他者は、そして店舗は、消費における誘惑の集合体として眼前に迫ってくる。私たちがその他者の内面にアプローチをする前段階において、既に持っているものや着ているものによってその他者のイメージは構築される。

他者のイメージは、他者の実体を上回り、彼/彼女のリアルはイメージによって塗り替えられる。ブーアスティンが主張した疑似イベント的に他者は経験されてしまう。

あの高価な衣服、そしてバッグは、記号で成り立っている。

彼はバレンシアガを着てはその記号で他者にイメージを構築させる。ラグジュアリー的記号を纏った「彼」として。

彼女が持っているあの白いバッグはマルジェラだ。彼女は自己満足的にそれを買ったのかもしれない。他者からの眼差しなど意識することなく。けれども、恐らくそれを見た他者は、マルジェラの記号性から彼女のイメージを否応なく構築し始めることだろう。彼女を狙っていた彼も、もう諦めるかもしれない。「俺の身の丈には合わない」などといって。

Amazonを見ることを禁止し、そして街に出ることをやめれば(書を捨てて、街に出ない)消費における誘惑は軽減されるかもしれない。けれど、事実上そんなことは不可能である。辺境の地に移住するしかないだろう。そこには百貨店もなければ、高速通信ネットワークも存在しないだろうから。けれど、そんなところはもはやどこにもないように思える。少なくとも後者に関しては。

大勢の人が2019SSのニューコレクションやニューモデルの家電製品を欲して街に出る。あるいは、インターネットでそれらを検索する。

仮にそれらを手に入れられたとしよう。数日後には自宅に大きな箱が届き、そこには真新しい商品が入っている。街で買ったならば、数時間後にはどこかのブランドの紙バッグを持ってあなたは最寄り駅へと急ぐ。

僕たちは満足する。束の間の物欲からの開放。

しかし、少しするとあなたは別のものが欲しくなる。キュレーションメディアで紹介されていたものや、インフルエンサーが推していた商品、お気に入りのモデルが着ていた衣服など。そして手元の財布を確認して、ため息をつく。

この円環的な「消費する欲望」は決して終わらない。僕らを一時喜ばせ、またある時には僕らを強く苦しめる、このウンハイムリッヒ的な欲望はいつ底をつくだろうか。

こんなことを考えてしまうのは僕自身も、ともすればこの「消費する欲望」の当事者であるからだ。

現代社会で暮らす私たちは常にこの「消費する欲望」を冷めた目で見ることができる人間であり、同時にこの深刻な問題認識を受け取る当事者でもある。社会の問題として、あるいは、個人的な問題として。「消費する欲望」は今でも深刻なテーマだ。