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星野源「Pair Dancer」に関する雑文(あるいは、他者と間違いについて)

星野源、待望のニューアルバム『POP VIRUS』を一通り聴いた。

星野源を最初にきちんと聴いたのは、2013年のことだったと思う。iTunesのライブラリを確認する限りではそうなっている。

ずっと追っていたわけではないので、あまり詳しいことは言えないんだけど、彼の作る楽曲の曲調は、病後大きく変わったように思える。端的に言えば、「明るく」なった。「ポップ」になった。

人は色々な経験、体験をしていくなかで、少しずつ(あるいは、ドラスティックに)変化していく。それは成功体験であったり、あるいは、失敗体験であったり。

おそらく彼にとって、ここ数年は大きな変化の連続だったことだろう。「星野源」という名前が大きくお茶の間に浸透したのも、つい最近のことだったのだから。

さて、今回の『POP VIRUS』で僕が気になったのは「Pair Dancer」という曲。少しだけその曲の話をしたい。

「Pair Dancer」は後ろのビートやクラップがとにかく心地良い楽曲だ。メローでスローなBPMで進むこの曲には、大きな変化があるわけではない。けれど、日常生活のシーンにすっと浸透するような穏やかさがこの曲にはある。かつての彼の楽曲に通ずる「優しさ」があるような気がする。

僕が何よりも気になったのはこの曲の歌詞だ。「Pair Dancer」というタイトルから類推できるように、この曲が歌っているのは「私」と「誰か」の2者関係だ。

別かつことで 気付く未熟は
繋ぎ直す 笑って 

こんな歌詞があることから、おそらくその「誰か」は「私」にとっての恋人なのだろう。

「Pair」(片割れ)との関係を歌うこの曲では、徹底的に自己と他者の関係が歌われている。

間違う隙間に 愛は流れている 

彼はそう歌う。「間違ってしまうこと」―誰にでも起こりうることだ―を僕たちはどう捉えるべきだろうか。誰もが一度や二度、大切な人―それは恋人でなくても、家族や友達など誰だって良い―との関係で間違ってしまった経験があることだろう。

「間違い」は不可避だし、「間違い」に明確な基準も存在しない。こうしたら絶対に間違いなんていうものも存在しないし、僕らが他者と向き合うときに間違いは必ず起こりうる。

けれど、その「間違い」を修正するためには、僕らはきちんと向き合わなくてはいけないのだ。その相手と。

「間違い」は必ず修正できるとは限らない。不可逆的な「間違い」もあるかもしれない。それでも僕らがきちんと他者と向き合ったときに、そこにはきっと愛が流れる。それは人類愛的なものとして、自己と他者を包み込み、新たな関係性を生み出す。

「Pair Dancer」は恐らく「私」と「彼女/彼氏」の恋愛関係を歌っている曲だ。しかし、恋愛関係といっても、付き合うとか別れるとか、そういう話ではない。

真剣に他者と向き合うこと、そしてそこにある共有される時間をどう過ごすのかということ、そんな普遍的なことを彼は歌っているように思える。

色々なことが効率化され、また様々なことが利害関係の中に回収される現代で「Pair Dancer」は「他者」と共に生きることの普遍的な幸せを歌っている。そんなふうに僕には思えたのだった。

Pair Dancer

Pair Dancer

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