Prune.

好きなことを好きなだけ。

巻き戻しをするということ/Rewind to change something

巻き戻しとか、巻き戻すという言葉をふと耳にして、なぜ僕たちの日々は(時間は、あるいは、人生は)巻き戻せないのだろうと思った。

小沢健二は「流動体について」で「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら」と歌い、過去のある時点において別の選択(間違いとしての選択)をしていたのならという仮定のもと、同時並行の別の人生の可能性をほのめかしている。

本来的に、僕たちは生まれたときから、あるいは、僕たちが生まれる前からも時間を「巻き戻す」ことはできず、ずっと文字が左から右へ流れるように、直線的な進行を続けている。例えば、あなたがあなたの両親から生まれてきたことも決して巻き戻して改変することはできず、あなたが今通っている大学に合格したことを巻き戻して、不合格にすることもできない。

この不可逆性、時間の巻き戻しはできないということは何を僕らに伝えるだろうか。

ただ、同時にこんなことも思う。

同時並行的にあり得た、見知らぬ他者との生活や愛情、友情は実は存在していて、ただ不可視になっているだけだとしたら。実は未来として規定されている「明日」はかつての時間の再演だとしたら。こんなあり得ないことを考えることに意味があるのかどうかはわからない。

しかし、これらのことを考えること―つまり極めて非現実的な内容を思考するということに同じだが―は、時間の不可逆性、巻き戻しの不可能性という意識をさらに強固なものとすることに寄与しているのは確かだ。

巻き戻したいことがあなたにはあるだろうか。僕にはいくつかある。僕たちは、巻き戻せないことを知っていてそれでもなお、巻き戻しが可能なのではないか、時間は未来という方向に向かって一直線に進行していないのではないかと思うかもしれない。「巻き戻し」への絶え間ない欲望は、この先の未来の人々もきっと変わらず、そしてそれは永遠に叶わないだろう。けれど、それくらい信じてみたって良いかなと思ったりする。不可能なことを不可能だと断言する確実性もまたないのだから。