Prune.

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For All Time、あるいは、さよならなんて云えないよ

大学4年生になった。大学であまり知り合いに会うことも少なくなって、代わりにまだまだ初々しい3年生を目にしたりする日々。

自分が大学1年生だった頃を思い出してみる。あの頃と比べて、どんなことが変わって、どんなことが進み、また逆にどんなことが後退しただろうか。

僕が好きなMichael Jacksonの曲に「For All Time」というものがある。日本語訳すると「永遠に」という意味になる。永遠なんてあり得ないし、この世に永遠なるものは一つも存在しない。けれど、なぜ永遠という言葉があるのだろうか。

それは、人が永遠なるものを飽くことなく求めているからではないか。そうでなければ、永遠なんて言葉はきっと世界に存在しなかったはずだ。それがForeverであれ、永遠であれ、Toujoursであれ、何でもいい。永遠という概念、そしてその言葉があることが大切なのだから。

初々しい学内の3年生を見て、そして街中で見かける大学1年生らしきを目にして、彼ら/彼女らにも永遠などないことを知る。いずれ大学生活は終わり、社会人として、家庭人として、何らかの形で別のライフステージを歩み始める。

ライフステージが変化することを「美しさ」や「清々しさ」だけで表現するのは間違っていると思う。ライフステージの変化には、必ず「切なさ」や「別れ」がつきものであるから。

僕らは結局進み続けなければいけない。それは、否応なく迫りくるものだ。そして、それは「私」に向けられているだけでなく「社会」にも向けられている。むしろ、「社会」に向けられたその眼差しが、その流れで「私」にも向けられていると言ったほうが正しいかもしれない。

様々な美しいこと、楽しいこと、素晴らしいこと、素敵なことが詰まった記憶を咀嚼し、再解釈し、胸に刻むことを僕たちはしなければいけない。その記憶は永遠ではないから。

こんなことを考えていると「さよならなんて云えないよ」という小沢健二の曲も思い浮かぶ。やっぱり、そう。さよならなんて"云えない"のだ。でも、永遠はない。いずれ"さよなら"しなくてはいけないことは沢山ある。どんなに美しかろうと。どんなに永遠であるべきことだと、思っていたとしても。

僕は「For All Time」を望み「さよならなんて云えないよ」と云う。

しかし、それは"絶対に"叶えられない。でも望んでしまう。なんて馬鹿だろう。