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ちぎれた夜に、暮らしと意味について考えたこと―そしてそのループ

「暮らし」とはなんだろうと思う。

暮らしていくこと、生きていくこと、これはある意味では同義だと思うし、またある意味では違うような気がする。生きていくことは、もっと個人的な問題で、暮らしていくことは、より他者との関わりに重きがおかれているような気がする。

岡村靖幸の「ちぎれた夜」という曲を聴きながら、そんなことを思った。

この曲には「暮らし」という言葉が何度か出てくる。一人暮らしをしている僕は、たしかに"暮らして"はいるけれど、それはなんだか僕が思う暮らしとは違う。

暮らしって、もっと誰かと何かをしたり、誰かと何かを思ったり、そういう誰かが入り込んでくるようなものだと思う。それは家族だったり、夫婦だったり、子どもだったり。

東京という大都市に一人で住みはじめて、もう何年も経つけれど、この街の暮らしとは何なのだろうと思う。沢山の人たちがそれぞれ生活を営んでいる。みんなが暮らす街には、どんな意味とドラマが潜んでいるのだろうと思う。

生きることに意味を追い求めるということ、あるいは、暮らしていくこと、進んでいくことに意味を追い求めるという態度、それ自体そもそも正しいのかは分からない。

生きていくことにも、暮らしていくことにも、前進することにも意味なんて本当は一つもなくて、けれども僕たちはそれをこなしていかなくてはいけないのかもしれない。

意味があるからやる、だとか、意味がないからやらない、というのはとても狭い僕たちの閉じ込められた考え方にすぎないのだとしたら、意味を追い求めることはもうやめにしようと誰かは言うだろう。

僕は今、食べる。僕は今、本を読む。テレビを見る。誰かと会話する。人と離れて寂しくなる。将来のことを考える。よく分からなくなる。

Flipper's Guitarは「きっと意味なんてないさ」と歌っていた。有意味性、あるいは実利性に過度に追い詰められている僕たちは、もしかして彼らのように「きっと意味なんてないさ」と今こそ言い放つべきなのかもしれない。

なんにも意味なんてない。ただ時間は流れていくし、その時間に逆らうこともできない。まるで漱石の「則天去私」のような考えにも思えてくる。

でも、今ここに存在することに有意味性を見いだせなくなったら、きっと僕らは狂ってしまうだろう。けれど、僕らはその前提を捨て去るべきかもしれない。有意味性など、元々"ない"と。

この先の将来に(僕が思う)本当の意味での「暮らし」があるのだとしたら、そこに意味はあるだろうか。僕らは何かを拡大させ、何かに貢献をして、何かのために働く。その何かは意味にほかならない。僕らは結局意味ばかり求めて、その意味のために生きているのだから。

僕らの「暮らし」に意味なんてものがあるのかは結局分からない。

けれど、僕は意味があると思いながら、その意味をやっぱり追い求めたいと思うし、意味のある「暮らし」を営みたいなと思う。あなたはどうだろうか。

そんなことを考えて、今日も一日が終わる。

意味は宙ぶらりんで、どこかへと正しく繋がれることを望んでいる。けれど、それはまだまだ遠い先になりそうだ。