Prune.

好きなことを好きなだけ。

【短編小説】あるソルナ・セントラムでの邂逅をめぐって

ソルナ・セントラムの地下鉄駅を電車は既に通り過ぎていた。気づいた頃にはヤコブの目の前に座っていた三十代後半くらいのいかにも高価そうなコートを羽織った婦人も、電車を降りてしまっていた。

彼があの日彼女に出逢ったのは、このソルナ・セントラムの地下鉄駅構内だった。

彼女はあの日、改札前で駅員と会話をしていた。しかし、そこには会話と到底言うことのできないようなコミュニケーションの欠如があった。なぜなら彼女は日本からストックホルムに来た旅行客だったからだ。正直、彼女は英語一つもろくに話せなかった。

よくそのような状況でストックホルムに一人で出掛けようと思ったなと、ヤコブは不思議だったが、とにかく彼女が駅員と何かに関して意思疎通を図ろうとするも、うまく会話が成立していないことは明らかだった。

ヤコブは、家族の待つ自宅へ帰ろうとする最中。しかし、特に急ぐ理由は何もなかった。ヤコブは学生時代、日本に留学していたことがある。

咄嗟に彼女の近くに行き、日本語でこう尋ねた。

「どうしたのですか。私は日本語が分かります。通訳しましょうか。」

すると、彼女はヤコブを救世主と言わんばかりの眼差しで見つめ、

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、通訳していただけますか。」と言った。

彼女はほとんど意思疎通が図れないことに草臥れていたようだった。これで挫折しているようでは、この先が思いやられる。

彼女は今夜宿泊するホテルの最寄り駅への乗換に迷っていたようで、ヤコブスウェーデン語で駅員と会話をし、それを丁寧に日本語に翻訳して彼女に伝えた。

「ありがとうございます。本当に助かりました。このままホテルに到着できなかったから、どうしようかと。感謝しています。」

彼女はいかにも心がこもったようなイントネーションでヤコブにお礼をした。

「礼には及びませんよ。私が日本にいたときも、多くの日本人に助けられました。日本人はとても優しいですね。」

「あなたは日本に住まれていたんですね。驚きました。異国の地でこんな出会いがあるなんて。偶然の出会いですね。」

まったくその通りだとヤコブも思った。スウェーデンで日本人を見かけることはめったにない。こんな風に日本語を母国で話すのも久しぶりのことだった。

その後、2人はそのまま同じ電車に乗った。ヤコブの自宅がある方向と彼女のホテルがある方向が同じだったからだ。2人は車内でいくつか会話をした。彼女は長いフライトで随分疲れ切った様子だったが、英語やスウェーデン語ではなく日本語で会話ができるヤコブに対して親近感を抱いていたようだった。つい数十分前に出逢ったばかりなのに、2人はまるで長い友達のように心地よい時間を車内で過ごした。彼女は、麻子という名前の女性だった。歳は二十代後半で、東京の専門商社で事務をしていた。そのとき彼女には一人の婚約者がいて、もうすぐ結婚の予定が決まっていた。

ヤコブは彼女の口から語られる様々な事実について、どこか悔しさを感じた。ヤコブには二つ下のノルウェー人の妻がいるし、二人の小さな子どもだっている。僕は何を求めているのだろうとヤコブは思った。まだ出逢ったばかりの女性が婚約していて、もうすぐ結婚するという事実に対して悔しさを感じるだなんて。

実際、麻子はヤコブのタイプの顔でもなかったし、特段何か強く惹かれる部分があったわけでもない。しかし、麻子と隣合わせで座っていると、日本に留学していたときのことを強く思い出した。あれは今から10年以上前のことで、ヤコブはそのときひどく強烈で、後戻りのできない恋をしていた。結局、その恋は一つも実らなかった。思いを伝えたが、あなたはいずれ近いうちに母国に帰ってしまうのだから、私はあなたと付き合うことはできないと言われたのだった。

妻と結婚して以来、過去の恋愛について考えることなど一度もなかった。ヤコブは妻との関係にとても満足していたし、二人の子どものことも深く愛していた。しかし、心のどこかで彼は日本に留学していたときに好きだった彼女のことを忘れられずにいたのだろう。それはまるで冷凍庫の奥にひっそりと残っている賞味期限のとっくに切れた冷凍食品のように、たしかにそこに存在はしているが、長い間手に触れられてこなかったもののようだった。

久しぶりに会話をした日本人である麻子が彼の心を再び揺り動かした。ヤコブはかつての実らなかった恋を反芻しようとしていた。彼はあの東京の街で吸った薄汚い排気ガスの混じった空気とともに、彼女のとびっきりの笑顔を今でもやはり克明に覚えていた。それは結局、この先何十年経ってもやすやすと忘れることのできないであろう鮮明な記憶だった。

麻子が降りるべきT‐セントラーレン駅が近くなると、ヤコブは彼女に「麻子さん、そろそろ降りる準備をしないと。」と言った。それは幾分名残惜しさを含んだトーンで、おそらくその感情は麻子にも伝わっていたことだろう。

「本当にありがとうございました。言葉が通じるかどうかはやはり不安ですが、楽しい旅行にします。ヤコブさんも素敵な土曜日を。」と麻子は笑顔で言った。

ヤコブは「麻子さんも、素敵な土曜日を。ストックホルムを楽しんでください。Adjö!(アデュ)」と返事をした。

ホームでベルが鳴り響き、麻子は日本から持ってきたであろう大きなトランクのキャスターの音をごろごろと鳴らしながら電車の外へと歩いていった。電車を降りると、彼女は一度こちらを振り返って、お辞儀をした。ヤコブは、あらためて日本人は律儀だと思った。

電車のドアが閉まると、ヤコブはなんだかとても空虚な気持ちになった。晴れやかでからっとした春の空気が突然、湿度の高い雨空の下で吸い込む空気に変わるように、彼を取り巻く空気は一瞬で大きく変化していった。

彼はこの数十分しか一緒にいなかった彼女のことをその後何度も考えた。日本人にめったに会うことのないこの街で、彼は突然に日本から来た英語もろくすっぽに喋れない女性の手助けをした。そして、その過程で日本に住んでいた頃に想いを寄せていた女性のことをふと思い出した。それは彼にとって、長い間思い出すことのない記憶だった。いや、思い出す必要すらない記憶だった。

そのかつての記憶―それはヤコブがまだ若くて、世の道理や宿命など何も知らなかった頃の記憶だ―を思い出すたびに、彼は自分の胸がひりひりと痛むのを感じていた。彼はあのとき、あまりにひどく人を好きになりすぎていたのかもしれない。あるいは、それはあまりにアンバランスで不相応な恋だったのかもしれない。

日本に留学していたとき、ヤコブはひどく恋をしていた。その相手は日本人で、しかしその恋は決して実らなかった。彼は異邦人で、結局は母国に帰る部外者でしかあり得なかった。麻子を手助けしたとき、彼はかつての記憶をありありと思い返すことができた。それは彼がまだ若くものを知らなかった頃に日本で感じた現実であり、そのとき彼が強く求め、彼に与えられた結果に他ならなかった。

ヤコブは今日もソルナ・セントラムを通り過ぎる。駅名が書かれた看板を見るたびに思い出す記憶。本当はあの日だって彼は、心の底では誰かの存在を強く求めていて、かつて果たされなかった願いが叶う日が来ることを待ち望んでいた。たとえ、それが今の現実の幸せを一瞬で奪い取ってしまう、悪魔のような存在であったとしても。