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「報われない」物語の美学

世の中には、報われる物語と報われない物語がある。

報われる物語は、辛いこと、苦しいことがあっても最後には主人公が明るい笑顔を取り戻し、幸せを得る話。一方の報われない物語は、辛いこと、苦しいことの末、待っているのは究極的な終わりだけ。

みんなどっちの物語が好きなのだろう。

一般論として、子供向けの物語には報われる話が多く(ただイソップ童話には割と辛辣で報われないものが多いような気がするけれど)文豪と呼ばれる人たちの物語には、報われない話が多いように思える。

世の中には、報われない、救いようもない悲痛な話もたくさんあって、そう考えればリアリズム的で報われない話の方が正しいような気もするが。

けれど、せめて物語の世界では夢を見たいのに、そこで報われない現実的な話を見せられて、がっくしということもまたありそうだ。

報われない物語の良いところは、報われる話より「美学」という点から見れば美しく見えるということ。美貌の上、何でもかんでも成功する人物が再び成功する物語を見せられても美しくない一方、美貌でもないが努力した結果、やはり成功しないという救いようのなさには美しさすら感じる。

坂口安吾も「文学のふるさと」で救いのない生存の孤独が文学を文学たらしめるといった趣旨のことを述べていたけれど、文学などの物語は常にモラリティへの対抗という背徳性をもとに、美しさを獲得してきたところがあるのではないか。

物語における圧倒的な美しさは、救いようのなさという土壌にあって初めて醸成され得るし、そのことを報われない物語は知っている。報われない物語の報われなさにみんなは感涙したり、美しいと思ったり、綺麗と感じたりする。

そして現代でも度々使われる「かわいい」という言葉もかつては、現代での「かわいそう」の意味を持っていた。そして、僕はこの時代においてもかわいいという言葉は、無垢であるとか、穢れないとか、どうしようもない救いようのなさといった、ある種のかわいそうな要素を内包していると感じる。かわいいという一種の美しさを示す表現でさえ、その内部にはかわいそうな報われなさを隠し持っているように思えるのだ。

だから、僕は美しさと報われなさは繋がっているのだと思う。