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"方言"の魔力と図書館体験: 早稲田で芥川賞作家「綿矢りさ」を見てきた話

10月21日は早稲田大学創立記念日だったようだ。と言っても僕は早大生でもなんでもないので普段なら縁もゆかりもないのだが今回は違った。

芥川賞を当時最年少である19歳(僕と同い年だ)で受賞された作家、綿矢りささんと、同じく芥川賞を受賞され、その後も谷崎潤一郎賞など数々の受賞歴を誇り早稲田で現在教鞭も執られている堀江敏幸さんの講演会があったのだ。

僕は高校時代に綿矢さんの「蹴りたい背中」を読んだのがきっかけで今ではすっかりファンだ。新作が出た時はすぐに買うようにしているし、綿矢さんの作品も有名なものはだいたい読んだ。と言っても綿矢さんは執筆年数に対して作品数がそれほど多くないから集めるのはさほど難しいことではない。

そういえば高校時代に書いた「蹴りたい背中」の作品解釈について以前ブログ記事にしているので、もし良かったらこの記事の下へ進む前に一読してもらえると嬉しい。

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綿矢りさと言えば、芥川賞を19歳で取るという天才的な才能に加え、とても美人な方なので、そういう意味でも当時ブーム的に綿矢さんの作品を買ってみたという方も多かったのではないかと思う。実際今日はじめてお目にかかることができたのだが、やはり美人な方で関西弁のアクセントがとても可愛らしく感じられた。

この方言というのは実に奇妙で、魔力を持つものだ。特に関西弁の魔力は怖い。恐ろしい。男性が使えば、陽気でムードメーカーの雰囲気を醸し出させるし、女性が使えば可愛らしく、言語感覚を彩る一つの武器になる。"ことば"の力は力というより魔力なのだ。そしてこの関西弁というのが今回の綿矢さんの最新作「手のひらの京」と大きく繋がり合っている。綿矢版「細雪」というキャッチの帯が付けられていたが、本作は関西弁。京都を舞台に3人姉妹の生活が描かれる。谷崎オマージュと言ったところか。

手のひらの京

手のひらの京

 

谷崎は関東大震災後東京を離れ、その後関西を気に入ったというが、谷崎が関西を気に入った理由にもきっと関西弁という方言の魔力があったに違いない。可愛い子がもっと可愛く思えてくる魔法のようなものが方言なのではないか。性別に限らず"方言が好き"という声は少なからず聞こえてくる。方言は人々の言語感覚をくすぐり、弄ぶのだ。ああ、やっぱり魔力。

さて話は戻るが今回の講演会のタイトルは「私と図書館」だった。堀江教授が自分自身の早大生時代の思い出を語りながらも、綿矢さんに質問をしていくようなスタイルで講演は進められていった。

ここでいくつか面白かったお話をピックアップ。

まず1つ気になったのは、本を読むときの感覚の違いというお話。図書館で本を読むときと家で一人で本を読むときの感覚はどう違うだろうという話題だ。

綿矢さんは、図書館で本を読むと周囲の音なども文に影響してくるといった趣旨のお話をされていたが、これは僕もかなり同意したいところだ。

一人で静寂の中、部屋でぽつりと本を読む。対して、大勢の人がいるところで周囲の環境音を耳にしながら読書する。同じ本、同じ文字を読んでいても、そこで発生する読書体験は全く異なるに違いない。文こそ、どこで読んでも同じだがある意味で文は生きていると僕は思う。文は不変的な存在ではなく、限りなく可変的な存在だと思うのだ。もちろん文字のキャラクターは変わらない。しかし、その文がもたらす感情であるとか、文が想起させるイメージというのは周囲の環境に大きく影響され得るのではないか。それがどう違うとは僕も上手く説明できないが、読書体験は明らかにその空間によって変化する。

2つ目に気になったのは、全集を読むことの重要性について。

これは堀江教授が熱弁されていたことなのだが、好きな作家の全集を読むことがその人のリテラシーの土壌になるという趣旨のことを仰られていた。例えば単行本だと年代に連続性がなく、飛び飛びの年代で作品が構成されることがある。しかし全集の場合、編年で構成されているのでページをはじめから最後まで読むとその作家の人生を追うようにその時代と作家の年齢を意識して読書をすることができる。これが大きなメリットだと言うのだ。ある意味これはアカデミズムだと言えるのかもしれないが、全集を読破し一つの作家のストーリーを体得することで、その作家の文体であるとかエッセンスを自分の糧にすることができるのではないか。

綿矢さんは太宰好きでも知られているが、学生時代に太宰の全集を読破したという。僕自身も感じることではあるが、綿矢文体はよくよく考えてみると太宰文体(あるいは太宰節)に似ているところがある。体言止めの小気味よさであるとか、芥川賞を受賞した「蹴りたい背中」の冒頭にある「オオカナダモ、ハッ?っていうこのスタンス。」という話題になった主人公のセリフであるとか。この歯切れの良さはある種の太宰節の影響を受けていると言っても過言ではないのではないか。

しかし、このような太宰のエッセンスを綿矢さんが体得できたのもこの全集読破のおかげなのかもしれない。これをピックアップ的に抽出していれば(これは学問の場で言われるインターネットの功罪でもある。検索で調べれば簡単に問題の答えを得ることができるが、それは部分的なピックアップに過ぎず物事の本質にはたどり着けないというインターネットの構造ゆえの問題点。これに対し本は包括的に知識を体得できるとされる。)決して得られなかったものなのかもしれない。

3つ目に気になったのは、図書館体験について。

綿矢さんは学生時代からたくさん図書館に通われていたとのことだったが、図書館の本の感覚についてお話されていたのが興味深かった。

綿矢さんは図書館の本は油っぽくて図書館の匂いがすると仰っていた。たしかに。油っぽいというのはたくさんの人が読んだ本なら顕著だし、図書館の匂いというのもよく分かる。書店、とりわけ古本屋にも本の匂いというものが染み付いていたりするが、図書館も負けず劣らずだ。海外の書籍と日本の書籍だとインクも違うから、匂いが全く違うというお話も堀江教授からあったが、本の匂いだとか本の手触りというのは読書体験に大きく影響する。

LPレコードを収集されている方なども同じように共感できるかもしれないが、本もただ中身(コンテンツ)を楽しめれば良いというものではない。カバーやページをめくる感覚など様々な総合的要素をもって読書体験を形作っているのだ。だから、油っぽくて図書館の匂いがする本という綿矢さんの感覚は今までの豊富な読書体験があったからこそ得られるものだろうし、その感覚を大事にすることが読書をいっそう価値あるものにしてくれるような気がする。

まだまだ書きたいことはあるが、はじめてお目にかかることができた綿矢りささんは本当に素敵で、感性豊かで物腰が柔らかそうな方だった。

自分の好きな作家と会えるというのはかなり貴重な経験だ。芸能人ではないからテレビなどでお見かけすることも少ない。だからこそ、こういう場で何かを得るというよりその空間を共有できたということに大きな意義があるのではないか。そう思えた、幸せな1日だった。