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スガシカオと"昭和文学"のつながりを考えてみた

このあいだ谷崎潤一郎の「痴人の愛」を恥ずかしながらはじめて読んだんだけど、ふと気づいたことがある。なんかこんな感じの雰囲気、匂いを漂わせているミュージシャンがどこかにいなかったかー。そう、スガシカオだ。

中3のあたりにスガシカオをしきりに聴いていた記憶があるんだけど(親がCDを持っていてそれが聴き始めたきっかけになる)最近はめっきり聴かなくなっていた。

僕にはどんなことにもだいたいマイブームみたいなものが毎年あって、音楽であればやれ今年はスガシカオだ、フジファブリックだ、Perfumeサカナクション…と今までも色々あったんだけど谷崎を読んでいたらふとスガシカオを思い出してしまった。

ご存知の通り「痴人の愛」は簡単に言うと主人公(一人称形式の小説なので)譲治が村上春樹で言うところの100パーセントの女の子である奈緒美に出逢い、その魔性の女に翻弄されてしまうという物語だ。圧倒的な美貌を持った女性が男性をなぶっていく様には少し苦笑いをしてしまうが、その一方で谷崎の志向した耽美主義に則り強烈で抗いがたい美に対して屈服しようとする主人公の精神性や、男の性(さが)が見事に表現された傑作とも評価できる。

さて、そんな谷崎の「痴人の愛」だけど僕はこの雰囲気がスガシカオのある曲にとても似ていると思った。それは「あまい果実」という曲だ。

歌詞はここから読める。>> http://j-lyric.net/artist/a000655/l008f09.html

解釈は多様にできると思うが、少なくとも恋愛関係が疎遠になりかけている男女のやり取りを描いていると解釈はできると思う。

この歌詞からは、相手のことが好きで好きで仕方がなくて今すぐ手に入れないと気が狂ってしまうとでも言いたげな男性の気持ちが見て取れる。

ここに「痴人の愛」での男主人公、譲治に重なる点を見いだせないか。

譲治は作中で魔性の女である奈緒美が他の男とも関係を持っていたことを知り憤慨する。しかしその後、妻である奈緒美を怒鳴り散らして家から追い出した譲治であったがわずか数時間後には彼女が恋しくて恋しくてたまらなくなってしまっているのだ。

あれだけなぶられても、欺かれても、それでも譲治は奈緒美というトラップから逃れることができない。言うならば完全に地獄ループにハマっている状態だ。100パーセントの女の子である奈緒美はそう譲治がいずれなることをとうに見抜いていて自分に跪いて靡くことを知っていた。

「あまい果実」の歌詞では、こころを開いてくれない女性側に対して半ば嘆願するかのように暗喩的に好きだと言い続ける哀しい男の姿が描かれている。これはまさしく譲治にほかならないのではないかと僕には思えてしまう。

真意なのかどうかははかりかねるが、「あまい果実」の歌詞中で男から離れようとする素振りを女性が見せれば見せる(あるいは魅せるとも解せるか)ほど男はその女性のことが頭から離れなくなる最悪のパターンに陥ってしまうのだ。

これを最悪と捉えるか、あるいは谷崎のように耽美主義の終着点、究極美の局地としての望ましい姿と捉えるかどうかは考え方次第だが、「痴人の愛」と「あまい果実」はこんなふうに僕にはかなり似通って読めた。

実はこれより前からもスガシカオの音楽には昭和文学の土壌を感じ取ることができたように思える。例えば、2006年リリースされたアルバム「PARADE」に収録された楽曲「斜陽」は疑いようもなく太宰治の名著から取られたタイトルだ。

歌詞はここから読める。>>http://j-lyric.net/artist/a000655/l00924c.html

太宰の「斜陽」は戦後の階級制度解体の流れを受け貴族階級だった主人公たちが没落していくありようを当時の時代性と共に味わえる作品だが、スガシカオの歌詞ではそのあたりにはまったく触れていない。

主題となっているのはやはり男女の恋愛で、しかも既に終わった恋愛を懐古する内容。純愛として始まった愛情をもってして彼女の何もかもを引き受けようとした主人公の姿が見て取れる。しかし引き受けたものを彼はやはり背負うことができなかったし、しまいには自分が相手に対して見せていた優しさも"悲劇のヒーローを気取った見せかけのくさった心"だと吐き捨てる。自分たちの愛情は永遠だと思っていた主人公の初心な姿からは、純愛だけは尊く信じ続ける希望や人の内奥の部分にまで迫ってくるような精神性を感じ取ることができるだろう。

さて、ではここでこれらの心情や表現を太宰とリンクさせるとすればどう接続させられるだろうか。

明確にこれはここと繋がると言い切るのは難しそうだが、ここに出てくる主人公の性格におよそ太宰に似通ったものを見出すことは十分可能であるのではないか。

例えば"悲劇のヒーローを気取った見せかけのくさった心"という点では、太宰の生家は成金の新興貴族でそれがために自分は周囲の人間を搾取した結果として貴族でいられるという彼が生涯抱えていたと言われるある種の後ろめたさ(あるいはコンプレックス)を悲劇と捉える。そして事実それは悲劇以外の何者でもなかったのかもしれないけれど、それを持ちつつもナルシズムやロマンチシズムが彼の嘆きを素直に肯定させてくれなかったと解釈する。そうすると、前述した"悲劇のヒーローを気取った見せかけのくさった心"と合致するのではないか。

そして同曲の歌詞全般に漂う、なんとかして彼女を救ったり、彼女のために生きていこうとしたのだけれども結局できやしなかったという雰囲気には太宰が最期に山崎と心中したときの悲劇性を重ねて見ることもできるのではないかと思えてしまう。

正直に生きることが、言い換えれば正しく生きようとすることがより自分の人間としての狡猾さやエゴイズム、あるいはナルシズム(自己愛)などの自然を発現させてしまうという皮肉をこの曲は描いていると広く解釈すれば言えそうだし、そのような結果を太宰に見ることも十分可能なのではないかと僕は思う。

長々となってしまったが、このようにスガシカオの歌詞には谷崎や太宰など昭和文学の土壌がかなり流れ込んでいるような気がしてならない。

事実スガシカオは読書家らしいし、少なからず影響を受けている面はあると思う。

ただ、スガシカオが大好きだと公言する村上春樹的要素はあまり彼の歌詞自体には見いだせない。不思議なことに。また今度機会があったらそのことも詳しく書いてみたい。

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