Prune.

好きなことを好きなだけ。

【超短編エッセイ】A to B to somewhere


Peter Peter - Conversation

やれコロナ禍だ、緊急事態宣言はいつまで延びるかなどと、まくしたてられる日々。本質的に重要なことはなにか。エコノミカルに?リアリスティックに?PV至上主義的に?

未開の地に足を踏み入れる冒険家のように、慎重に。あるいは、よく当たると巷で話題の占い師が語る未来予測のように、大胆に。そんな区分自体が間違っている可能性も考えたい。

これ以降の未来はどうなりますかと問われ、世界は一変しますね、だとか、9月入学のグローバル・スタンダードに合わせるべきです、などと答える。あらかじめ検討されうる、そして妥当そうな(相手の求める)答えを提出する。このような緊急事態においても、何らかの適切で妥当性の高い意見を提出することが要求されるだろう。

しかし、適切で妥当性の高い意見とはいったい何なのだろうと問う。そもそも我々が知り得ていること、考えられること、想定できることは、せいぜい今日の夜ご飯程度なのだ。

妥当性はどのような基準によって算定される?適切あるいは不適切は何によって決定される?決定できず、回答もできないという回答は不適切なのだろうか。

いろいろなクエスチョンマークが浮かんでくる。

ポール・ゴーギャンのあの作品のように、我々が今問うべきことはこれだけだ。

"Où allons-nous?" (我々はどこへ行くのか?)

そしてその答えは、きっと温泉の湯けむりのような見えないベールを越えた先にある。

【超短編エッセイ】La nuit―夜

たまっている下書き記事が大量にある。いずれ然るべきタイミングにアップすればよいのだけれども、然るべきタイミングとやらが来るのかどうかは分からない。

夜は深く、深海のなかにいるような気分になる。

美しい音楽が夜を彩れば、夜の部屋の灯りは少しで構わない。東欧を思わせるその音楽は、もう少し続けて聴くとアジア風にも思えるし、結局のところ無国籍音楽かもしれない。

消える。様々な音を構成する要素が、そして区分が。この文章についても、誰が書いているのか、どのようなことを書いているのか、何を伝えようとしているのか、ということが消える。意味がない。

雑音は最悪だ。街に出ると、雑音にあふれている。雑音の尊さを主張する人もいるだろう。街を構成する要素としての雑音。しかし、その雑音は僕を苛立たせ、あるいは、酷く疲れさせる。そのような経験を持つ人はわんさかいるだろう。

写真の中の人が微笑む。映像のなかの景色がリアルを超える。ノイズキャンセリングイヤホンがかき消す音。

画面は明るい。部屋は暗い。その妙なコントラストが、現実の隠されていた諸事実を表沙汰にしてしまう。忘れていたはずなのに、隠していたはずなのに、と舌打ちをする人が現れる。けれど、事実は深夜に明らかになってしまう。構造的に、しかも連続的に。

夜の街の静けさ、まばらな車のヘッドライト。しかし遠くの高速道路を進む多くのトラックの姿。見えないもの、今ここから見えないものが作り出す事実を考える。

今夜も続く。クラブハウスで、ワンルームの一室で、24時間営業のスーパーで。それぞれの夜。明らかな夜。繰り返す夜。

【短編小説】Matters of Concern

冷房をガンガンに効かせた部屋なのに、少しエアコンの風が弱くなると途端に暑く感じてしまう。暑がりは、外に出られないし、暑がりは、黙ってエアコンの効いた自宅で読書をしたり、音楽を聴いたりしている方が良い。

ただの霧みたいな、ただの雨みたいな、ただの風みたいな、瞬間が夜に突然やってくる。ただ現れ、ただ流れ落ち、ただ吹き荒ぶような瞬間の連続がやってくる。

正直、あまりに甘い考えだったのかもしれない。それがあまりに簡単で、適応的だったからといって、それの自立性が容易に揺らぐわけがない。

ある種の甘さ、寛容さは、別の側面から捉えればある種の堅牢さであり、自信の現れなのだ。

BPM130で踊ろうと友達がいう。踊っても問題は解決されないし、事態を後回しにするだけなように思える。けれど、自分にはそれが必要なのだろう。

踊ることで身体感覚が鋭敏になり、自己に対して自覚的になる。視覚の観点からは、他者が同様に踊り狂っている様をみて、正常や異常、安全や危険といった単純な二項対立がいとも簡単に壊れてしまう、機能を無効化してしまうことを認識するだろう。

結局のところ(あるいは、つまるところという表現を使ってもよい)それがもたらす磁力に対して抗うことが最も適当であるのか、それとも共鳴することが適当なのか、といったことについて僕らは悩みくれているのだ。

「くたびれた」と彼女はいう。思考することに?あるいは、踊ることに対して?

しかし、夜は流れる。そのとき彼女は何というだろう?僕は実際的な課題についていかに説明できるだろう。

いつだって今ここだけが、本当の意味で正しく、厳然たる事実なのだ。いつかどこかは、きっと存在しないし、それはずっとMatters of Concernであり続けるだろう。

ただただ流れていく時間や、ただただ正確に各駅に停車していく鉄道と、サイレンを鳴らし続ける緊急車両、灯りのつかない信号は全く異なるものだ。正常と異常という差異。しかし、正常も異常であり、異常も正常であるのかもしれない。

「結局の問題は、」と彼女はいう。続けて彼女は「事実と仮定、正常と異常といったものが瓦解してしまっていることだと思う。それは0と1の壊滅的な混同だし、海と陸が一体化するくらい強烈なことな気がする。」と口早にいう。

まるでことのすべてを知り尽くしているかのように。