Prune.

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【短編小説】We Never Know

 ▼HAIM「You Never Knew」に最大限のオマージュを。

You Never Knew

You Never Knew

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高速道路に沿って続く、いくつかのマンションを眺めて。

沢山の部屋に灯りがついているのに気づくでしょう。おそらくそれは暖色で、ちょっとオレンジっぽくて、少し質の良さそうなカーテンがかかっていたりするでしょう。

多分、そこには子どもたちがいて、優しいお母さんと少し帰りが遅いお父さんがいたりするでしょう。シチューを食べるのか、カレーを食べるのか、あるいは、買ってきたお惣菜を食べるのか。

「私はカレーが良いな。昔からシチューってなんだか中途半端で嫌いだったの。」と彼女はつぶやく。

「僕も嫌いだったよ。白いカレーなんてのも食べた気がする。それもやっぱり中途半端なものだね。」

僕はそう言ってみる。

視点を上から下に戻して。今歩いているのは、そんなに広くない歩道。僕が車道側を歩いて、彼女がその隣を歩く。車が何台か向こうからやってくる。先頭はアウディ、次はランドローバー。

僕らには遠い未来が見えない。いや、近い未来も見えないでいる。明日は何をしているのか、明後日はどうやって生きているのか。何も間違いなく過ごしたとしても、明日は見えない。

多分、誰もが気づいていないことというのが世の中には沢山ある。明日、突然いろんな物事が変わってしまうこととか、価値観が一変してしまうこととか。そんなことあるはずないって思うでしょう。けれど、ないとも言えないと思うんだ。

彼女は僕がこういうことを考えながら、不安を覚えていることをきっと知らない。

僕は彼女にいろんなことを話す。意外と沢山話すのだ。けれど、それは表層を探る旅のようなもので、あるいは、長いプロセスを割愛し結果だけを報道するテレビ番組のようなもので、本当のことは案外伝わっていないのだ。いや、本当のことなんて、本当はないんだけれど。

僕はたしかにシチューが好きじゃなくて、昔白いカレーを食べた記憶がある。

けれど、結局それだけだ。なぜシチューが好きじゃないのかということや、白いカレーを食べた僕がどんな感情を抱いたのか、そこにどんな想い出があるのか、についてはおそらく語ることなどないだろう。いや、語ることは許されていない。

隣を歩く彼女の顔にはどことなく不安の色が被さっていて、僕はそれに気づかないふりをしているのかもしれないし、本当は不安であるという僕の予想自体が根本的に間違っているのかもしれない。悲しいのかな、本当は。

彼女は自分なりにいろいろ考えているだろう。他者という存在における不可侵領域。忍び込もうとすると扉を閉ざされる部屋。僕にも同じようにそれはある。

また何台かの車が僕たちの横を通り過ぎていく。今度はミニとシトロエン

遠くのマンションの暮らしはきっと明日も変わらないだろう。遠いものは変わらない。というより、変わらなく見えるのだろう。遠い場所の遠い暮らし、感情の交換、シチュー、あるいは、カレーの香り…。すべては理想的で、静かに形作られ、僕らの前に時々現れる。蜃気楼のように。

「じゃあ、今日の夜はカレーで良い?」と彼女は訊ねる。

僕は「うん、そうしよう。」と一言答える。

僕たちはなんにも知らない。明日も明後日も、おそらくその先も。We Never Know (but also we don't have to try to know.)

撒かれたものを拾うということ

撒かれたものを拾うということ。何もかもが見つからないような夜の海の底から、拾い物を探すように彼は目を皿にする。遠くで点滅するいくつもの光。飛行機。ここがどこだって構わない。もはや場所は、場所ではなくなったような気がしてしまう。

 

間違っていることは構わないと思う。人畜無害であるよりはよっぽどましに思えた。窓の外を眺めると、雪がしとしとと夜の底に降り積もっている。遠くから聴こえる音は、どこかの誰かも同じように聴いているのだと思った。彼の脳裏には3年前に別れた彼女の記憶が一瞬よぎる。

 

撒かれたものを拾うということ。撒かれたものには、撒く側と拾う側がいる。撒く側は適当な場所を見つけ出し、それを思いっきり叩きつけるように撒く。ぴしゃんという水しぶきをあげ、撒かれたものは水の中へと沈んでいく。そう、たしかに、沈んでいく。

拾う側は、きっとその数年後ぐらいに撒かれたもののことを思い出し、(よりによって真夜中に)水辺へと近づく。そこには全く人気がない。

 

彼は何もかもを諦めようとする。彼はどんな大学を出たって、どんな仕事に就いたって、結局はロクなことになどならないだろうと考える。彼は彼自身を支える支柱を失ってしまったように思える。

 

2月の水は凍るように冷たい。海の底の生物はどうしているのだろうかと彼は不思議に思う。かつて撒かれたものは、今どうなっているのだろう。
撒かれたものと同じように、彼が無意識にこれまで撒いてきたもの、あるいは、意図せず撒かれてしまったものたちのことをふと想像する。彼がそれらを拾うことは二度とないだろう。

 

僕たちにとって、撒くことはあまりにも簡単で、拾うことはあまりにも難しいのだ。

円環的な「消費する欲望」の当事者として + 商品で記号を纏うということ

近頃は、ミニマリストなどに代表される「本当に良いものを少なく持つ」という言説をベースに、そのような生活を実践している人が多いような気がする。

僕自身も、最近たくさんものは買わないけれど、その代わりにとびきり良いものを買うという消費の在り方も理想的なのかなと思ったりしている。

しかし、それはそう簡単に叶えられるものではないだろう。一度街に出てみると、一度Amazonを開くと、そこには幾多の誘惑が隠されているからだ。

例えば百貨店に行けば、質の良さそうなもの(本質的に質が良いかどうかは別問題だ)やブランド品が並ぶ。それらは当然高い。それらが欲しくて堪らない人も少なくないだろう。

街を歩けば良さげな衣服やバッグ、靴を履いた人を多く見かける。何気なく目を向けた先の人が着ていた服は普通に高価だ。もしかすれば、10万くらいしたかもしれない。彼女が何気なく持っているあのバッグだって普通に高いのだ。

もう街に出れば、全ては誘惑である。他者は、そして店舗は、消費における誘惑の集合体として眼前に迫ってくる。私たちがその他者の内面にアプローチをする前段階において、既に持っているものや着ているものによってその他者のイメージは構築される。

他者のイメージは、他者の実体を上回り、彼/彼女のリアルはイメージによって塗り替えられる。ブーアスティンが主張した疑似イベント的に他者は経験されてしまう。

あの高価な衣服、そしてバッグは、記号で成り立っている。

彼はバレンシアガを着てはその記号で他者にイメージを構築させる。ラグジュアリー的記号を纏った「彼」として。

彼女が持っているあの白いバッグはマルジェラだ。彼女は自己満足的にそれを買ったのかもしれない。他者からの眼差しなど意識することなく。けれども、恐らくそれを見た他者は、マルジェラの記号性から彼女のイメージを否応なく構築し始めることだろう。彼女を狙っていた彼も、もう諦めるかもしれない。「俺の身の丈には合わない」などといって。

Amazonを見ることを禁止し、そして街に出ることをやめれば(書を捨てて、街に出ない)消費における誘惑は軽減されるかもしれない。けれど、事実上そんなことは不可能である。辺境の地に移住するしかないだろう。そこには百貨店もなければ、高速通信ネットワークも存在しないだろうから。けれど、そんなところはもはやどこにもないように思える。少なくとも後者に関しては。

大勢の人が2019SSのニューコレクションやニューモデルの家電製品を欲して街に出る。あるいは、インターネットでそれらを検索する。

仮にそれらを手に入れられたとしよう。数日後には自宅に大きな箱が届き、そこには真新しい商品が入っている。街で買ったならば、数時間後にはどこかのブランドの紙バッグを持ってあなたは最寄り駅へと急ぐ。

僕たちは満足する。束の間の物欲からの開放。

しかし、少しするとあなたは別のものが欲しくなる。キュレーションメディアで紹介されていたものや、インフルエンサーが推していた商品、お気に入りのモデルが着ていた衣服など。そして手元の財布を確認して、ため息をつく。

この円環的な「消費する欲望」は決して終わらない。僕らを一時喜ばせ、またある時には僕らを強く苦しめる、このウンハイムリッヒ的な欲望はいつ底をつくだろうか。

こんなことを考えてしまうのは僕自身も、ともすればこの「消費する欲望」の当事者であるからだ。

現代社会で暮らす私たちは常にこの「消費する欲望」を冷めた目で見ることができる人間であり、同時にこの深刻な問題認識を受け取る当事者でもある。社会の問題として、あるいは、個人的な問題として。「消費する欲望」は今でも深刻なテーマだ。