Prune.

好きなことを好きなだけ。

"Plateau" 創痍としてのプラトー

▼このアルバムのなかから好きな曲を選んで、それを聴きながら読んでもらえると嬉しい。

レインコートが雨を弾く。あるいは、綺麗に巻かれたストールが目に映る。あれはミラノ巻きだったりするのかもしれない。そのあたりには詳しくないから、正確なところは分からないけれど。

街に人が集う。疲れた身体は、夜の光のなかに簡単に隠れてしまう。黒いチェスターコートの彼は、あてもなく歩く。遠く遠く離れたところにある(らしい)正しいプラトーを求めて。

例えばストールは踊る。それを巻く彼女の意思を無視するかのように。白いストールはどこか遠いところへと向かって伸びていくかのように。彼女も黙ってはいない。それを捕まえようとする。もう一度綺麗なミラノ巻きに戻そうとする。

夜の街は静か(ではなくて)どこかからどこが発信元なのか分からない、低い音が聴こえてくる。それは僕だけでなくて、この街に住んでいる人、この街を味わう人、みんなを包みこむ。街はその音に包まれ、人はその音とともに街を歩く。

今日の僕はひどく疲れていて、早く部屋に帰ろうと電車に乗り込む。隣の席の人もやはりひどく疲れていて(あるいは、飲みすぎているのかもしれない)ぐっすりと眠っている。彼はスマートフォンを落としそうになる。

ガタンという音とともにスマートフォンが床に落ちる。その彼の隣に座る他者としての彼女がそれを拾う。深夜12時過ぎに下北沢駅を通り過ぎる井の頭線。彼女のAHKAHのネックレスが揺れる。彼を何度彼女が揺すっても彼は起きる気配がない。都会は多分、そういう場所なのだと思う。

創痍としてのプラトーに辿り着く人たちは、もう後戻りできない。傷は癒えない。

僕らのプラトーはA ou Bで、Aだったら勝者だし、Bだったら敗者となる。そんなに簡単に勝ち負けは決まってしまうのだ。プラトーを追う人たちは、今日もいたるところに存在する。(かのように思える)

巻き戻しをするということ/Rewind to change something

巻き戻しとか、巻き戻すという言葉をふと耳にして、なぜ僕たちの日々は(時間は、あるいは、人生は)巻き戻せないのだろうと思った。

小沢健二は「流動体について」で「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら」と歌い、過去のある時点において別の選択(間違いとしての選択)をしていたのならという仮定のもと、同時並行の別の人生の可能性をほのめかしている。

本来的に、僕たちは生まれたときから、あるいは、僕たちが生まれる前からも時間を「巻き戻す」ことはできず、ずっと文字が左から右へ流れるように、直線的な進行を続けている。例えば、あなたがあなたの両親から生まれてきたことも決して巻き戻して改変することはできず、あなたが今通っている大学に合格したことを巻き戻して、不合格にすることもできない。

この不可逆性、時間の巻き戻しはできないということは何を僕らに伝えるだろうか。

ただ、同時にこんなことも思う。

同時並行的にあり得た、見知らぬ他者との生活や愛情、友情は実は存在していて、ただ不可視になっているだけだとしたら。実は未来として規定されている「明日」はかつての時間の再演だとしたら。こんなあり得ないことを考えることに意味があるのかどうかはわからない。

しかし、これらのことを考えること―つまり極めて非現実的な内容を思考するということに同じだが―は、時間の不可逆性、巻き戻しの不可能性という意識をさらに強固なものとすることに寄与しているのは確かだ。

巻き戻したいことがあなたにはあるだろうか。僕にはいくつかある。僕たちは、巻き戻せないことを知っていてそれでもなお、巻き戻しが可能なのではないか、時間は未来という方向に向かって一直線に進行していないのではないかと思うかもしれない。「巻き戻し」への絶え間ない欲望は、この先の未来の人々もきっと変わらず、そしてそれは永遠に叶わないだろう。けれど、それくらい信じてみたって良いかなと思ったりする。不可能なことを不可能だと断言する確実性もまたないのだから。

For All Time、あるいは、さよならなんて云えないよ

大学4年生になった。大学であまり知り合いに会うことも少なくなって、代わりにまだまだ初々しい3年生を目にしたりする日々。

自分が大学1年生だった頃を思い出してみる。あの頃と比べて、どんなことが変わって、どんなことが進み、また逆にどんなことが後退しただろうか。

僕が好きなMichael Jacksonの曲に「For All Time」というものがある。日本語訳すると「永遠に」という意味になる。永遠なんてあり得ないし、この世に永遠なるものは一つも存在しない。けれど、なぜ永遠という言葉があるのだろうか。

それは、人が永遠なるものを飽くことなく求めているからではないか。そうでなければ、永遠なんて言葉はきっと世界に存在しなかったはずだ。それがForeverであれ、永遠であれ、Toujoursであれ、何でもいい。永遠という概念、そしてその言葉があることが大切なのだから。

初々しい学内の3年生を見て、そして街中で見かける大学1年生らしきを目にして、彼ら/彼女らにも永遠などないことを知る。いずれ大学生活は終わり、社会人として、家庭人として、何らかの形で別のライフステージを歩み始める。

ライフステージが変化することを「美しさ」や「清々しさ」だけで表現するのは間違っていると思う。ライフステージの変化には、必ず「切なさ」や「別れ」がつきものであるから。

僕らは結局進み続けなければいけない。それは、否応なく迫りくるものだ。そして、それは「私」に向けられているだけでなく「社会」にも向けられている。むしろ、「社会」に向けられたその眼差しが、その流れで「私」にも向けられていると言ったほうが正しいかもしれない。

様々な美しいこと、楽しいこと、素晴らしいこと、素敵なことが詰まった記憶を咀嚼し、再解釈し、胸に刻むことを僕たちはしなければいけない。その記憶は永遠ではないから。

こんなことを考えていると「さよならなんて云えないよ」という小沢健二の曲も思い浮かぶ。やっぱり、そう。さよならなんて"云えない"のだ。でも、永遠はない。いずれ"さよなら"しなくてはいけないことは沢山ある。どんなに美しかろうと。どんなに永遠であるべきことだと、思っていたとしても。

僕は「For All Time」を望み「さよならなんて云えないよ」と云う。

しかし、それは"絶対に"叶えられない。でも望んでしまう。なんて馬鹿だろう。