Prune.

好きなことを好きなだけ。

Before sleeping,

本を読みながら、あるピアノの曲を聴いていたら、ここ数年の記憶みたいなものが頭のなかを行きつ戻りつして、なんとも言えない気持ちになった。

いろんなものの切片のようなものがあるとして、その切れ切れが全体そのものより大切だと思う。全体の完全な記憶より、一瞬の不明瞭な記憶の方が良い気がする。

音とか匂いとかそういう五感の要素って、意外とはっきりと覚えていて、それらはいつも記憶を補強してくれる。

そして、あの時の何気ない記憶とか、そういうのを呼び起こされるのはやっぱり夜で、それも真夜中で、リラックスしているときとか、考えごとをしているときとか、そういう時間で。お昼はクリアに物事を考える時間だとしたら、夜はふんわりと、スポンジの上を撫でるような感覚で、物事に触れる時間だと思う。

考える、と、触れる、は違う。考えることは、もっと体系的で整った行為だけど、触れることは、もっと漠然として曖昧模糊で、分散的な行為だろう。

美味しい苺のショートケーキのスポンジに綺麗にフォークを入れて食べていくのが、考えることだとするなら、丸ごと口に頬張ってしまうのが触れることだ。

結局、ケーキだって食べる前の方が(人気のケーキを買うために並んでる時間だとか、―僕はケーキを並んで買ったことはないけれど―それを家まで持って帰る時間だとか)食べた後よりも幸せなんじゃないか。知る前より知らないときの方が楽しいんだろう、何事も。

数年前には楽しかったことが、今では楽しいと思えなかったりということが最近ある。歳を重ねるとそういうことが増えていくのかと思うと、とても嫌な気分になる。

寝る前に音楽を聴く。そのピアノの音色が流れると、またいろいろなことを思い出す。断片的な記憶。

明け方に

明け方に聴く音楽が、そして明け方に音楽を聴いている時間が大好きだ。

いろんな人たちが仕事を始める前、みんなが眠っていて、そして街も眠っている時間。音楽だけが鳴り響いていて、軽快なメロディを奏でる。

どんなに1日嫌なことだらけだったとしても、この瞬間、この時間だけは少し幸せな気がして嬉しい。

音楽があって良かった、と思う。音楽が好きでよかったなとつくづく思う。こんなに幸せなものがあるなら、面倒くさいことでいっぱいでも、大変なことだらけであっても、頑張っていけるだろうと思う。

今夜は小沢健二「夢が夢なら」を聴きながら、寝る。 もうすぐ今夜は終わって、また朝が始まる。

(なんかこの曲、Miles DavisのDoo-Bopっぽい気もしなくもない)

人は複数のペルソナの夢を見るか?ーー大江健三郎『下降生活者』をめぐって

大江健三郎の「下降生活者」という短編を読んだ。

この小説は簡単に言えば、田舎(東京との対極の地として語られる場所)出身の主人公が、出自を隠し、その都合の悪い部分を偽りながら、高い地位(この小説では、大学教授として書かれている)を得るのだが、ある日突然路地で出逢った学生との関わり合いを通じて、はじめて心の落ち着きを感じる。というのも、主人公は結婚相手の妻に対しても、自分のことを偽り続けており、常に二重人格的に性格を作り上げていたからだ。

しかし、この学生に対しても主人公は、実際は大学教授であるにも関わらず、区役所の職員だと嘘をつく。

最終的には、諸々の事情があり(それは小説を読めば分かる)主人公は大学教授の職を辞し、路上で今までとは比べ物にならないような仕事に就くことになるのだ。彼は言う。

「僕は上昇の階梯にのって欺瞞の日常をおくってきた。いま欺瞞からのがれ、真実の自分に近づくためには、今まで上昇しつづけてきた高みから激しく下降せねばならないのだ。」 

上に書いた簡単な説明を読むだけでは(僕の文章力の無さに拠るところが大きいのだろう)正直何が魅力的な作品なのか分からないと思うが、この小説を読みながら、僕は複数のペルソナという存在の可能性、を考えた。

ペルソナとは日本語で「人格」のことを指すが、この小説の場合、主人公は表面的には上昇志向的(社会のなかで上流階級の人間でいたいという思い)な性向を持ちつつも、一方でその内部に(彼の内奥には)下降志向的な性向も元来存在していたのではないだろうか。

より簡単に言えば、この主人公には2つのペルソナがあり、一つは健全でインテリ的な「大学教授」としての、いわばエスタブリッシュメント的人格だ。そしてもう一つは、彼が生まれた地の地盤が持つような反エスタブリッシュメント的な、言うならば一方の人格と相反する人格だ。

このように、この小説を読んでいると、人に対して一つの軸を要求するアイデンティティ(自己同一性)といったものの存在が疑わしく感じられてくる。結局、みんな誰しもが複数の人格を持っていて、それは社会的・文化的な立場や状況によって容易にスイッチングされてしまうのではないかという疑問だ。

例えば、自分がAさんに見せている顔とBさんに見せている顔はおそらく同一ではない。少なからず人は、相手によって見せる顔を変えているし、それははその人が属するコミュニティによっても変化するだろう。職場での顔、家庭での顔などなど。

要するに、それらに一定の同一性を担保させるのにも限界があるのではないか。人は複数のペルソナを無意識的、あるいは、意識的にスイッチングさせることで、自分を成り立たせているような気がする。しかし、それは時としてこの小説の主人公のように、自分という存在を不安定にさせ、陥れ、そして壊してしまう。偽りを演じることで、欺瞞に対するやるせなさが募り、どうしようもならなくなってしまうのだ。

では、それはペルソナを単一化させることで解決するのか。僕はそうは思わない。結局のところ、ペルソナを単一化させ、どこでも同じ顔を見せていても、それはそれでコミュニティにおいて適合・不適合の歪みを生じさせ、そのコミュニティの内部の人たちとの関わり合いを困難にする。

しかし、ペルソナを複数にすることで、コミュニティによって顔を使い分けることができ、コミュニティでの適合・不適合の歪みを生じさせるリスクは軽減させられるようになるが、一方で主人公のように欺瞞という形で、自己との葛藤が増えるのだ。

「人は複数のペルソナの夢を見るか?」―こう聞かれても、これは事実、もう夢ではなくて、現実の話だ。ただし、ここで書いた「複数のペルソナ」が本質的な意味で理想の姿を獲得しているか、あるいは、獲得し得るのか、と聞かれるとやはり大いに疑問だし、まだそれは夢の段階に留まっているように思われる。

見るまえに跳べ (新潮文庫)

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