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待望の最新作をどう聴く: 宇多田ヒカル「Fantôme」の歌詞を解釈してみた

長期の"人間活動"期間を経て待望のニューアルバム「Fantôme」をリリースした宇多田ヒカル

以前の宇多田ヒカルと比べるとだいぶ落ち着いた雰囲気を感じさせるけれど、今回のアルバムでも彼女の芯の強さ、表現することへの強い意志は決して劣化していない。いや、その深度はさらに増していると言っても過言ではないのだ。

今日はそんなニューアルバム「Fantôme」から「道」椎名林檎とフィーチャリングした「二時間だけのバカンス」をピックアップしてその歌詞の解釈をしてみたい。

  • 1曲目「道」の解釈

まず前提としてこの楽曲は亡くなった宇多田ヒカルの母である、藤圭子に向けて書かれたと取るのが妥当だろう。宇多田が音楽業界で生きていくことを決意した背景には明らかに歌手であった母、藤圭子の影響があったことだろう。しかし、母は突如としてマンションから飛び降り自殺。帰らぬ人となる。

サビで宇多田はこう歌っている。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も 一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった

It's a lonely road But I'm not alone そんな気分

ここでいうあなたとは、まさしく母、藤圭子のことではないか。一人の道でさえ、母の助けがあったから一人ではなかったと宇多田は綴っているのだ。

目に見えるものだけを 信じてはいけないよ

人生の岐路に立つ標識は 在りゃせぬ

宇多田は存在し目に見えるものだけを信じるべきではない、人生の分かれ道でどちらに行けば良いと指図してくれるものはないと歌う。このあたりからは、宇多田はあくまで自分自身の意志による選択をしながらも、その後ろではその選択を見守ってくれる母の存在があり、それはとても宇多田にとって心強いものだったのではないかと思える。

目に見えるものだけを信じてはいけないという言葉にはとても重みがある。僕らは目の前にあるもの、答えがあるもの、唯一の解だけを追い求めようとするが、本来それらが正しい保証などあってないようなものだ。そもそも僕らは不確実性のもとになんとか立ち、毎日を過ごしているのではないか。例えば、愛情や友情とは不確かな気持ちのことだ。多くの人たちが軋轢を生みながらもなんとか維持できているのも、それらの不確かな存在、あってのもの。物質的な存在、即物的な存在は不確実性のもとではあまりに脆く、頼りないものだ。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も どこへ続くかまだ分からぬ道でも

きっとそこにあなたがいる

It's a lonely road But I'm not alone そんな気分

最後の締めの部分だ。亡くなってこの世から母が消えてしまっても、この先の私の未来にはきっとあなた(=母)がいると宇多田は言う。そして紛れもなくこの先の私の未来とは本曲のタイトルでもある「道」のことであり、母はいつまでも私を見てくれているだろうと宇多田は歌うのだ。

一つの歌を通して考えてみると、中盤で説明した「目に見えるもの」とは母という存在が持つ身体のことなのかもしれない。つまり心身二元論ではないが、母の身は消えてなくなってしまっても、宇多田を支えてくれた母の心は決して消えることがないということを宇多田は言いたいのではないか。母の心は当然、目に見えるものではない。でも、いつでも宇多田の一人の道を見守ってくれた母とはその身体ではなく、優しい親としての心だったのではないだろうか。

  •  4曲目「二時間だけのバカンス」の解釈

友人である椎名林檎とフィーチャリングしたこの楽曲は「道」と比べると解釈が少し難しい。というのも一人称が安定しないからだ。僕と私。2つの一人称が一つの楽曲内で使われている。宇多田は以前から僕という一人称をしばしば使ってきたので、僕だからと言って男性目線だと断定することはできない。ただ、一人称を多重的に使うことで男性→女性、女性→男性、はたまた同性間と歌詞から想定される対人関係をあえて限定させないようにしているのかもしれない。

それにしても全体的にこの曲から漂うのは「不倫」の危ない匂い。ある種のアバンチュール(Aventure)だとも言えるかもしれない。

朝昼晩とがんばる わたしたちのエスケープ

思い立ったが吉日 今すぐに連れて行って

二時間だけのバカンス 渚の手前でランデブー

足りないくらいでいいんです楽しみは少しずつ

サビの歌詞は上の通り。お互い忙しくしており長いランデブー(フランス語でデートの意味)はできないが、それくらいがちょうどよいと宇多田は歌う。

優しい日常愛しているけれど

スリルが私を求める

このあたりの歌詞から、ああこの関係は不倫なんじゃないかと多くの人は感づきはじめるだろう。相手がいてその相手との日常に何の不満もないけれど、スリルに掻き立てられて不倫をしてしまうと椎名は歌う。

ここで少し考えたいのは理性と本能、規範と欲望はどちらが先にくるのかということだ。不倫は社会として「いいですね、問題ないですね。」とはなかなか言いにくいことだ。ただそれが理性や規範だとしたら、不倫をしてしまうという心理はある種の本能と欲望の至るところだ。つまり不倫がダメだとされるのは、社会のなかでつくられた道徳がそれを許さないからだ。だから、人が社会システムや対人的なしがらみから完全に開放されたとき、それでも不倫をしないかと言われればだいぶ疑わしいのではないか。あくまで社会規範の中に存在する制度としての「不倫という悪」なのではないだろうか。

家族のためにがんばる 君を盗んでドライブ

全ては僕のせいです わがままに付き合って

二時間だけのバカンス いつもいいとこで終わる

欲張りは身を滅ぼす 教えてよ、次はいつ?

2番目のサビの歌詞。「家族のためにがんばる 君を盗んでドライブ」「全ては僕のせいです」という歌詞。一人称が私から僕に変わってしまった。これを性別の変化と捉えるか、かなり難しいところだ。ただ「家族のためにがんばる」という歌詞から推測するに男性の可能性が高いのではないか。1番目は歌詞の雰囲気、冒頭の歌詞から推測するに女性と考えられるが、2番目はどうも違うようだ。

「欲張りは身を滅ぼす 教えてよ、次はいつ?」という歌詞からは、いずれこの関係が身を滅ぼす可能性を孕んでいるにも関わらず、次はいつと関係を続けようとする様子が伺える。これが前に書いたように、不倫の道徳的罪悪感と本能としての欲望の葛藤なのだろう。人間思っているほど強くもないし、欲望に負けてしまうのは誰しも同じなのかもしれない。

今日は授業サボって 二人きりで公園行こう

もしかしたら一生忘れられない笑顔僕に向けて

このあたりでさらに歌詞は難しくなっていく。「授業サボって 二人きりで公園行こう」の歌詞は素直に考えれば学生の関係を指している。1番で既婚女性の不倫、2番で既婚男性の不倫、そしてここで学生の不倫?を歌っているとすれば、この歌はかなり複雑だ。

ただ、ここで「授業サボって 二人きりで公園行こう」という歌詞を額面通りに受け取るべきかどうか。一つの隠喩表現だと考えることもできそうだ。

そう言えば、ゲスの極み乙女。のボーカル、川谷絵音ベッキーと不倫関係のときに離婚届を卒論と暗喩していたが、これは悪い例えだとしても何か茶化して授業サボるという言葉を使っているのかもしれない。

不倫に漂うグレーな香りも、授業サボって二人きりで公園と来ればなんだかとても爽やかな青春の1コマにさえ思えてくれるから言葉は不思議で実にやり手だ。

結局僕としては明確なこの曲の解釈ができなかったが、不倫関係を題材としていることは間違いないのではないか。ただその不倫も黒い部分を取り上げるのではなく、アバンチュールとしての難しい部分を甘美に描いている。やはりこのあたりは宇多田ヒカル、才能の塊だと思わざるを得ない。

考えれば考えるほどハマってしまう宇多田ヒカルの歌詞。人間活動を経てさらに人間味を増した宇多田のニューアルバム「Fantôme」― ぜひ一人でも多くの人に聴いてもらいたい。

 

Fantôme

Fantôme

 

 

手紙とLINEとその向こう側: この時代に僕らが"手紙を書く"理由

湯船に浸かりながら考え事をしていて想ったこと。ちょっとタイトルは長いけど、単純に言えば手紙とLINEって何が違うんだろうっていうこと。

手紙、Eメール、LINEと、テクノロジーが進化するにつれてどんどんと人々の「伝える手法」は変わってきました。多くのコミュニケーションはLINEで済ませることがとりわけ学生の間では標準化されている現代に、あえて手紙を書くことの意味は何なのか。

僕の好きなモデルさんの1人に、前田エマさんという方がいます。エマさんはモデル活動の傍ら、手紙で友達や恋人に何かを伝えるということをもっと楽しもうといった趣旨で「Fluff」というプロジェクトを展開されています。

エマさんは「手紙は私に教えてくれる 私の心を教えてくれる」と締めていますが、この時代に手紙を書くということの価値を再認識するのも僕は悪くないことだと思うんです。

例えば簡単に手紙とLINEの違いを考えてみたとき、真っ先に思い浮かぶのは「時間」の違いです。LINEは送信ボタンをタップしてしまえば一瞬で相手にメッセージが届くほど即応性の極めて高いツールです。既読という仕組みもあるので相手が読んだかどうかも簡単に分かる。ちなみに、世界的に人気なメッセンジャーアプリ、WhatAppでは既読時間まで分かってしまうという。世界的に見ても、世の中的に時間にシビアな伝える手段が重宝されていることが分かります。

一方の手紙はどうでしょうか。手紙は基本的に相手のもとに届くまで、ポストに投函してから1日以上はかかります。海外ならそれはもっとかかってしまう。それに加え、LINEならその場でスマホさえあればすぐに送信できますが手紙の場合、便箋を選んだりペンを用意したり、宛名を綺麗に書いたりと下準備に結構な時間がかかってしまいます。前者と比べるとその面倒さ、手間のかかる程度はかなり目立つものです。

でも「意志」という概念から違いを考えてみたらどうなるでしょうか。LINEは簡単に時間をかけず送信できることから、それほどの意志はユーザーに要求されません。頑張って書かなきゃ、しっかり推敲しなきゃという意識もかなり希薄です。間違っていたら後から訂正すれば良いし、最悪訂正しなくても分かってくれるだろうという程度のコミュニケーションツールです。

だから、LINEは大切なことを人に伝えることには向きません。結婚式や葬式の出欠届けをLINEで取るでしょうか。近しい人ならいざしらず、人が亡くなったことをLINEで公に伝えるのはやはり非常識です。

手紙はどうでしょうか。手紙を書くことはLINEを送ることよりもかなり時間がかかるので、普通に考えればそこにはLINE以上の強い意志が要求されるといえます。ここでいう意志の強さとは、相手に何かを伝えようという気持ちの大きさのことです。送るのに時間がかかるということはそれだけ時間をかけても相手に伝えようとする強い気持ちがなければできないことではないでしょうか。こう考えると、意志という点において手紙はLINEと比べ優位性を持っていると言えます。

さて少し話はそれますが、昔の文豪の手紙が死後発見されて広く世に公開されることがしばしばあります。当事者にしてみれば赤っ恥もいいところですが、そうした手紙にはとても感情的で親しい気持ちが現れていることが多くあります。

例えば芥川龍之介。彼が当時の恋人に書いた手紙になんて「僕は文ちゃん(恋人の名前のようです)がお菓子なら食べてしまいたいくらい可愛く思うのです」なんて趣旨のことが書いてあるんですから。自分が芥川の身だったら、こんなのとてもやりきれないですね…笑

次に「筆跡」について。当然のようにLINEをはじめとするデジタルの「伝える手法」には基本的に筆跡が存在しません。キーボードを利用して文字を打っているので、その個人の性格が表れるとされる筆跡が見えないのです。

でも手紙は違います。パソコンで打たない限りは個人の筆跡がその手紙のイメージを大きく形作っていくのです。綺麗な字の人、大きな字を書く人、小さな細かい字を書く人、可愛らしい字を書く人…十人十色の筆跡がその手紙を彩ります。そんな手紙の文字を見ていると相手の気持ちが伝わってきて、なんだか良いなあと思いませんか。

こうやって比較していくと、なんだ手紙も悪いものじゃないなと思われた方も多いのではないでしょうか。僕は手帳を持たずスケジュール管理も全てスマホでやるようなデジタル派の人間なんですが、手紙に関してはやっぱり良いものだなあと思っています。本もそう。Kindleを持っているので電子書籍も読めますが、やっぱりページをめくっていく感覚が好き。本好きならきっと分かるのではないでしょうか。本を読みながら寝落ちするのが最高に幸せという話もよく聞きますが、Kindleを読みながら寝落ち…だとなんだか格好悪い。スマホ使いながら寝ちゃったみたいな感じです。

他にもラブレターはやっぱりいつまでもレター(手紙)であるから素敵なのではないでしょうか。映画などで気になる相手の机のなかや靴箱に手紙を入れるというシーンはよくありますが、ここからも何かを伝えるということへの強い意志が感じられてLINEより良いなあと思います。やっぱり手紙にはその人の意志、気持ちが大きく表れる。

伝えるということの重みを考えてみたとき、手紙からはその厳粛な重みがずしりと感じられます。何かを相手に伝えたい。それは感謝の気持ちであったり、愛情であったり、はたまた苛立ちや憎悪かもしれない。それらの感情の高まりは手紙という手段を持ってしたときのみ減退することなくストレートに伝わると思うんです。

LINEはたしかに便利なツールです。でも本当に何かを伝えたいという強い意志を必要とするときに不向きなツールであることは確かではないでしょうか。

手紙という効率も悪く、時間がかかる「伝える手法」を使ったときにだけ、相手に伝わる何かはきっとあると思います。その何かをじっくりと考えながら相手のことを思う。手紙を送る先の家族や友達、恋人、恩師…のことを考えながら文をしたためる。そんな時間はきっと素敵なものになると思います。

音楽の未来: CDはサブスクリプションに殺されるのか

秋も深まってきたなんて書きたい10月初めですが、9月末なのに30度近くまで気温が上がったりとまだまだ半袖で過ごせる今日此頃です。僕は夏が好きなのでこんな感じがずっと続いてほしいと思いながらも、読書の秋、食欲の秋…うーん秋も案外悪くないななんて思ってしまいました。

さて、今日は「CDはサブスクリプションに殺されるのか」というちょっと物騒なタイトル。でもそんな未来がもう、すぐそこまで来ているかもしれないのです。

サブスクリプションとは、Apple MusicやLINE MUSIC、そして先日3年越しで日本でサービスを開始したSpotifyに代表される月額いくらかを払えば音楽が聴き放題になるというサービスのこと。(厳密に言えばNetflixなどの動画サブスクリプションサービスもあるんですが、ここで言うサブスクリプションは音楽サブスクリプションに限定します)

米国では何年も前からサブスクリプションの代表格であるSpotifyが若年層を中心に愛用されていたのですが、ここに来て日本でもサブスクリプションを使う人達が増えています。

そんななかで旧来からのメディアであるCDの未来はどうなるのかと僕は少し心配になってきました。というのも僕自身がCDの必要性を最近あまり感じなくなってきたからです。書籍に関してはKindleを持っていながらも、本棚に並べておくのが好きなので断固として電子書籍ではなく本物の書籍派な僕ですが、音楽に関してはどうもそうではなくなってしまった。

これはひとえに僕を取り巻く音楽の環境が大きく変わり、そして僕だけでなく多くの人たちにとっても環境が変わってきたからではないでしょうか。

今多くの人たちはスマートフォンiPodウォークマンなど携帯音楽プレーヤーを介して音楽を聴いています。ポータブルCDプレーヤーやMDプレーヤーで音楽を聴いている人なんて、少なくとも僕の周りでは誰もいない。電車でも見たことがない。

そうなるとほとんどの人たちは音楽をこれらのデジタルプレーヤーで再生するために一度CDをPCに取り込まなくてはいけません。僕はこれが面倒だと感じるようになってしまった。中高生時代はCDを買ったり、CDをTSUTAYAから借りてPCで読み込むというプロセスを何度したことか。いやあ、本当数え切れないほど借りたんだから。いくらデジタルだと言えども、1枚のCDを読み込むのに5分程度はかかります。たった5分だけどされど5分。10枚あったら、50分だし。

それが今ではサブスクリプションを使えば1タップで音楽が聴けちゃう時代です。しかも音楽ライブラリは3,000万曲以上。とんでもない数の古今東西の音楽が揃っている。それが1タップ。ストリーミングはもちろんのこと、ダウンロードでさえ1タップ。最近の高速なネット回線を使えばダウンロードだって速い。

それでも料金は月たったの1,000円程度。契約をし続ける限りライブラリに追加した音楽はほぼ自分のもののような扱いで利用することができます。(DRMの面倒な話はありますがここでは割愛しましょう)

ちなみに僕はApple Musicを使っています。AWA、LINE MUSIC、Google Play MusicSpotify一通り使ってみましたがやっぱりしっくり来るのはApple Musicでした。AWAとLINE MUSICは洋楽の品揃えが本当に悪い。ちょっとでもマイナーな音楽になると全然取り揃えられていない。邦楽やTop 40の類に関しては全然問題ないんですけれど。あとは同じJ-Popでもインディーになると一気にダメです。Google Play MusicSpotifyは洋楽に関しては取り揃えが良いけれど、邦楽がいまいち。同じアーティストで比較してもApple Musicには一通りあるけれど、Spotifyには1、2枚のアルバムしかないなんてこともありました。まだローンチしたてということもあるけれど、3年も待たせてこれでは正直戦うのは難しいのではないだろうか…と思ってしまいます。数年前にアイドル戦国時代なんて言われている時期がありましたが、今は言うならばサブスクリプション戦国時代。Spotifyが日本市場でシェアを取るには遅すぎたかな…という印象です。Google Play MusicはUIというかインターフェイスがあまり好きになれない。Androidライクだから、iOSユーザーにはちょっと違和感があるのかもしれません。

Apple Musicはインディーにしても邦楽にしても相応の品揃えがあります。やはりiTunes Storeを持っている強みなのかレーベルへの圧力なのか…笑

さて、そんななかで僕はCDを買うというメリットをあまり感じることができなくなってきてしまいました。たしかに大好きなアーティストに関してはCDを買うという選択肢もまだまだあるけれど、ひょいと気になる音楽をまずCDで買うという選択肢が果たしてあるかどうか…。まず第一にCDは高い。邦楽のCDは特にそれが顕著です。洋楽ならアルバムでも1,500円程度なのに、邦楽だと平気で4,000円くらいする。サブスクリプションと比べると価格差は顕著です。

そして多くの場合、DVDやBlu-rayに限定の特典映像をつけることで付加価値を与えようとしていますが、そもそもYouTubeで4KレベルのBlu-ray超えの動画が観れる時代に高画質でもないDVDの動画にどれくらいの付加価値があるでしょうか。IT業界のマウスイヤーにコンテンツのサプライヤー側が追いつけていないというのが現状。

さらにCDはモノとしての価値があるけれど、サブスクリプションはモノとしての実態がないため、魅力に欠けるという考え方もあります。しかし、前述したように多くの人たちは音楽を購入したらステレオの前でジャケットを眺めながらゆったりと聴くことはできず、PCのドライブにCDを入れてそれを即座にMP3やAACの圧縮フォーマットに変換し、小さなプレーヤーで再生しているのです。それだったら、サブスクリプションで聴くのと大きな差があると言えるでしょうか。おまけに128Kbps程度のビットレートで聴いていたら、サブスクリプションより低音質になってしまうのです。

ちなみに僕はハイレゾハイレゾリューション)音源の意味に対しても懐疑的です。多くの人たちがハイレゾ級の音質を要求しているとは全く思えません。そもそも大半の人たちがAppleの純正イヤホンで音楽を聴いている環境でハイレゾによる音質の差異が価値をもたらすとは考えられないからです。オーディオ愛好家の人たちにとっては十分に価値があり魅力的なハイレゾですが、大半の人にとってはファイルサイズが大きいだけの存在という扱いになってしまうのではないでしょうか。

たしかに音楽は芸術で、アルバムやシングルはアーティストの大切な作品です。そこに異論は全くありません。しかし音楽の聴き方が変化しているなかで、肝心の再生するときは完全デジタルの、モノとして存在しない状況で聴いているのに、買うときはモノとして実態ある形で売っている意義が疑わしいと僕は少し思ってしまいます。

だからこそ、僕はモノとしてのCDを売り続けるのではなく、モノを伴わないデジタルコンテンツの形でCDのジャケットにあたる存在を作り出していく必要があると思います。インタラクティブSNS時代に適した新しいクリエーションの仕方があるのではないでしょうか。例えば、VR技術を利用してその音楽が創造する立体的な芸術世界を表現するとか。音楽という平面的な芸術をコアに、立体的な芸術を立ち上げることも十分可能なのではないか。

そしてそういう形で音楽を売りはじめるつまりCDでの音楽販売をやめ、モノを伴わない完全デジタルコンテンツとして音楽を提供することで、ライブの価値や需要が更に高まることは必至です。ライブは生でアーティストの音楽に触れることができる体験であり、モノとしての価値を超える存在だから。CDという形のモノは多くの人たちがたくさん買ってくれるけれど、ライブにはあまり人が来ない。それよりもよっぽどCDというモノは無くなってしまったけれど、サブスクリプションでみんな音楽は聴いてくれている、そしてその音楽を気に入ってライブに多くの人が来てくれるという方が素敵だと僕は思います。CDというモノによる体験ができなくなれば、必然的に人はそのモノ分の代替としてライブへ行くという選択を選ぶのではないでしょうか。

さらにCDの売上数上の価値付けはオリコンチャートという不透明な存在にほぼ独占されています。かつてはこのチャートが十分な機能を果たしていましたが、ダウンロード配信やサブスクリプションなどが台頭し音楽の聴き方が多様化するなかでオリコンチャートの数値が持つ価値性はかつてほどではなくなってしまいました。

しかしこれがサブスクリプションがメインになれば、おそらく再生回数やプロモーションに関してもアーティストが管理ツールを利用し実態的に把握できるようになるため、より透明性が高く効率的な活用が可能になるでしょう。アナライズの有用性も高まります。これはアーティストにとっても得なことではないでしょうか。

CDからサブスクリプションへの過渡期と言っても過言ではない昨今。CDやサブスクリプション、そして音楽業界の未来への関心は高まるばかりです。