Prune.

好きなことを好きなだけ。

言葉で伝える / 伝わるということ

この人はどんな風景を見たのだろう、だとか、この人はどんな思いをしたのだろうと思う。目の前で向かい合って話を聞いていても、言葉から伝えられるその風景や思いは、リアリティを欠く。むしろ純度の高いリアリティを求める姿勢自体が間違いなのかもしれない。

言葉から構築される風景や思いは、僕が作り上げるものだからだ。

例えば、沖縄で見た美しい風景について僕に話してくれる人がいたとして、その言葉から僕が想像する風景は僕の過去の経験に依存する。

僕が沖縄に行ったことがあれば、それは過去の僕が沖縄で見た景色と限りなく近いものになるかもしれないし、逆に沖縄に行ったことがなければテレビ越しで見た括弧付きの「沖縄」を思い浮かべるかもしれない。

言葉で何かを正確に伝えることには限界がある。相手の言葉から思い浮かべたそれは、僕が作り上げる想像の産物でしかない。

だけれど、僕はそれがとても悔しいと思う時がある。

全力の想像力をもってしても、僕は今向かい合っているその人が見たであろう美しい景色や思いを100%で受け取ることはできない。その人がどんなに僕にその美しさを伝えようとしても、それは正確には届かない。その人が感じた美しさは、その人の感性が引き起こした美しさであって、僕の感性が引き起こす美しさとは違うからだ。

距離は近くても、どんなに相手の心を知ったつもりになっていても、それは他者でしかあり得ず、どんなに万能な言葉を使い、的確に表現しても、デコーディングには限界があって100%は伝わりきらない。

そんなことを思うと、ちょっと悔しい。いやとても悔しい。同じものを共有しているつもりが、どこか別々のほうを向いているような、そんな感じがするから。

筋書きのない深夜の考えごと

何か書く。書きたい。でも書くことがない。そういう気持ちでこのブログを書いている。書くという行為にだけ力を注ぐなら、中身はどうでも良いと言えるのだろうか。書くことはあくまで「書く」行為であって、その中身まで保障されたものではない。意味を成していなくても、何か文字を表すだけで良いのなら、それで十分書いたと言えるだろう。でも、せっかく書くのなら何か面白いこと、意味のあること、伝えるだけの価値があることを書きたい。そんなことを思いながら、何か良い話はないか考えている。書きながら考える、そういうタイプなのかもしれない。

大学帰り、スーパーに立ち寄って夜ごはんを買う。美味しそうな食べもの―実はそれは毎日何度も目にしている、似たような代わり映えのしない食べものであるということを推し量ることができる人たちは恐らく僕と同じような境遇にあるのではないか―が並ぶスーパーをぐるぐるすることは案外楽しいことだ。最近は健康的な食べものを買おうと心がけているのだけれど、いつもそうであるとは限らない。やはり食欲をそそる食べものというのは大概高カロリーだし、身体に悪い。唐突にラーメンが食べたくなるようなその食欲は、もう魔術的な存在と言っても良いくらいだ。美味しい食べものと健康な食べものは必ずしも等号の関係にならない。その中でうまい具合に食べものを選び、そしてそれを家に持ち帰らなければいけないのだ。寿司とか買ったら、家に帰ってくる頃には逆さになってたりしてね。それはもう、悲しみでしかない。

今僕はパソコンで文章を打っている。そのパソコンの画面の向こうにはテーブルがあり、オレンジジュースとアップルジュース、そしてジャスミンティーのパックが並べられている。あと、2リットルの水。飲みものを選ぶことはとても大切なことだ。そして、美味しい飲み物を選ぶことは、食事の充実度を大いに変化させる。もし食事充実度バロメーターみたいなものが存在するなら、間違った飲みものを選んだら食事の魅力は半減してしまうだろう。食合せが大切なら、飲み合わせも大切だろう。

ちなみに、オレンジジュースはトロピカーナより、ドールの方が美味しいというのが僕の結論だ。アップルジュースはまだ決め兼ねてる。ジャスミンティーは、セブンイレブンのが一番手頃でそこそこ美味しい。水は、前はいろはすが好きだったが、最近はそうでもない。

今聴いている音楽は、キリンジの「雨を見くびるな」という曲。

雨を見くびるな

雨を見くびるな

  • KIRINJI
  • ロック
  • ¥250

この曲はなかなか良い曲で―良いという言葉で全てを済ませることにすれば、全ての物事は良い・悪いの二者で簡単に決められてしまうから、あまり望ましくはないかも―かなりおすすめしたい。おそらくキリンジが好きな人は、渋谷系もいけるし、冨田ラボとかも聴いちゃうだろう。好きなものを掘り下げていく過程はとても楽しい。浅いところから深いところへ潜っていく感覚はなかなかのものだ。

小沢健二もやっぱり良い。最新作「フクロウの声が聞こえる」のカップリング曲である「シナモン(都市と家庭)」が最近のお気に入りだ。僕はこの"都市と家庭"という言葉にすごく惹かれる。都市のダイナミズムとそこにある家庭の存在。暖かく、エネルギッシュというよりはリラックスできるような空間は都市にどんな意味をもたらすのか。都市の中の(理想的な)家庭は既に崩壊しつつあるかもしれない。対立が広がり、仕事との両立の中で軽視され、理想的な家庭というイメージにがんじがらめにされて。都市と家庭、都市の大きなギアの中に存在する家庭はどうあるべきなのか。小沢健二はそういうことを考えているのかもしれない。大きな問題、例えば人口減少だとか福祉だとか、ポピュリズムだとか排外主義だとか、そういうことよりも先に、僕らの前に確実に現れるのは家庭だと思う。その機構が都市の中でどうあるべきなのかはもっと考えていかなくてはいけないことなんじゃないかなと思ったりする。

あと数日で10月の雑踏に足を踏み入れる。秋になり、ハロウィーン、そしてクリスマス。目白押しのイベントを控えながらも、もう今年は3ヶ月しかない。秋が終わって冬が来て、ちょっとしたら春になる。次の桜が舞う季節には4年生だなんて。想像したくない。でもその足音は着実に聞こえてくる。

「さよならなんて云えないよ」という曲が頭をよぎる。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる、僕は思う、この瞬間は続くといつまでも」本当に僕はそう思いたくて仕方がないのに。