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切っても切れない「子育てと労働問題」を考えてみた

今日は少し真面目な話をしたい。たまにはいいだろう。

今期、ちょっとした興味から教育行政学の講義を履修した。僕は教育学部の学生ではないので(そもそもうちの大学に教育学部はない)ある意味専攻外ではあるが、これが予想外に面白い。大学入学後に履修した講義の中でも、ベスト3に入る面白さだ。

いや、面白いという言葉は正しくないかもしれない。教育行政学を齧っていくなかで、教育の問題点など今までほとんど知らなかったことをたくさん知ることができたような気がする。

個人的な考えではあるが、僕は「教育」というものは他の様々なことよりも優先して取り組むべきことだと思う。なぜなら、教育は一時的なものではなく、継続して人生に影響を与えるものだからだ。小学校から高校、あるいは大学までが教育だと考える人もいるかもしれない。しかし、僕はそもそも生まれたてのころから既に教育は始まっているし、それは死ぬまで続くものだと考える。どのように生きていくかというライフプランニングもそうだし、何を知るか、何を大切にするか…そんな根源的なことも教育を起源とするのではないか。だって教育なくして、そういう考えを持つこと自体が不可能だからだ。何かを学ぶことなくして(それは学校教育やフォーマルな教育の語が示す教育を必ずしも意味しない)人は生きていくこと自体ができないのだ。

さて、そんな中で僕が特に関心を持ったのは「幼児教育」についてだ。具体的には乳幼児から小学校入学前までの教育のことだが、この時期の教育には、その後の人の性格や生き方をある程度決定付ける要素がある。よく性格診断で幼少期の性格が問われたりするが、基本的には人は、幼い頃に個人の基礎となるような土台の部分を形成していくことと関係しているだろう。つまり、幼少期の教育はそれ以後の教育と比べても、よりプライオリティが高いと考えたい。

しかし、近年「保育園落ちた日本死ね」問題に端を発する、待機児童の問題がとりだたされており、現在でも根本的に解決される見込みは立っていない。

そこで、今日は昨日たまたま大学近くの書店で見つけた一冊の本に触れながら、この待機児童問題について書いていきたい。

保育園を呼ぶ声が聞こえる

保育園を呼ぶ声が聞こえる

 

この本は先日発売されたばかりの新しい本で、待機児童問題や子どもの権利、主にイギリスとの保育園制度比較が本文内で行われている。通読してみて、いくらか極端な意見もあり全てに賛同できるわけではないが、現状の日本の保育園における問題点を把握するための手始めとしては良い1冊であるように感じた。

まずこれは大学の講義でもやったことだが、都心部での待機児童問題の深刻さに驚かない人はいないだろう。ごくわずかな枠に何十組もの保護者が応募し、抽選したりしているのが現状だ。もちろんこれは地方などでは緩和される傾向にあるが、大都市圏への人口一極集中の影響もあり、東京などでは本当に酷いことになっている。

さあこの問題をどう対処すべきか。あなたならどう考えるだろうか。

そこで政府が出した案は「規制緩和」という手段だった。それは、子ども一人あたりに与える面積を縮小し、詰め込むという方策だ。本来子どもの発達には、一定レベルの面積確保が必要だが、そのギリギリの基準を下回るような施設を作ったりしている。

もちろん、場所がない東京ではそうせざるを得ないのは分かる。しかし、無理矢理子どもたちを詰め込むような形で問題は根本的な解決に至るのだろうか。

企業内保育園(企業主導型事業所内保育事業)の設置も政府は推進している。しかし、こににも大きな問題点がある。例えば自治体に権限がなく、監査にも入れないということ。たとえブラック企業がブラックな保育園を作っても、そのチェックに行政は関与できないのだ。また保育所保育指針と呼ばれるルールにも"準ずる"だけで良いため、仮に幼児の予期しない死亡事故などが起きてしまっても、裁判で"準ずる"では明文化されないため、罪に問われない可能性がある。

ここで僕が一つ思ったのが、最近の日本はあまりに「経済合理性」を重視しすぎなのではないかということだ。高度な経済発展の結果が人を労働搾取することだったり、経済的な利益の最大化だとしたらあまりにそれは本末転倒なのではないかと思う。本来、経済であれ、企業であれ、それは最終的には人や社会をより良くしていくために機能すべきはずだ。誰もが人が死んだり、苦しんだりする社会を望んではいないだろう。

そんななかで、ただ目先の利益が欲しい、金儲けがしたい、人が死んでも苦しんでも自分さえ良ければ良いという人や企業が近頃多すぎるのではないかと感じてしまう。

ブラック企業が増加し、非正規労働者が増え、長時間労働が当たり前になり、賃金は減り、休日は減り、結婚はできず、子どもも育てられない社会を誰が望むのだろうか。誰も望んでいないはずだ。けれども、確実に日本はそういう方向に向かっていっているような気がする。

そしてこれらの労働問題を含む社会問題は、確実に待機児童問題や保育園の問題、そして少子化問題とも繋がってくる。すべてメビウスの輪のようになっているのだ。

人口が減る。これではまずい。子どもが1人あたり1.8人(希望出生率)欲しい。産んでもらわなくては。こうなったときにどういうプランを打ち出すべきなのか。

ブラック労働が横行して、長時間低賃金労働が一般化し、過労死すれすれラインの人たちが子どもを産めるだろうか。(これは必ずしも女性のみを指さない。夫婦として、社会あるいは共同体として男女ともに労働問題が解決しない限り、女性が安心して子どもを産むことは不可能だろう)

結局子どもの問題というのは、共同体の問題にリンクする。子どもの問題は女性のみに起因することではないのだ。その背景には父親である男性がいて、その夫婦、そして子どもを見守る社会がある。これらの総合的な共同体の問題を解決しないことには、待機児童問題を筆頭とした子どもの問題は決して解決しないと思うのだ。

そして、これらは最終的には「考え方」に起因すると僕は考える。その考え方とは、つまり日本人を取り巻く(無意識的に形成されている)価値観であり、思考の観念であり、物事の認識の仕方だ。

例えば、過度な長時間労働は経済合理的にも、効率的にも、健康的にも、社会的にも悪影響があるという認識をどれくらいの人が持てるか。考え方が変わらない限り、何も変わらないのだ。そして、それをしっかり理解できる企業人や政界や行政の人間がいない限り、これらの問題は一ミリたりとも変わらないだろう。むしろ悪化していく可能性だって十分にあるのだ。

また、この本では「保育園」がゆるい共同体、コミュニティの場として機能する可能性を提示している。保育園には所得や年齢が違うが、子どもを育てているという点では同じ保護者たちがたくさん集まる。送り迎えのたびに行くのだから、その頻度も結構なものだろう。そのような場所が、保護者同士の交流や情報交換、そして保育士との交流の場にもなる。

僕は個人的意見として、このような「ゆるい共同体」の存在が今後ますます重要視されるようになっていく、また重要視すべきだと考えている。

今の時代に強い結束を求める共同体を維持することは難しい。それは労働組合などへの参加率の低下や学生運動の下火という現状を見ても分かるだろう。だからこそ、そのようなゆるい共同体が人々のコミュニティとなり、そこで意見交換をしたり、発言していくことが社会にとってメリットになるはずなのだ。

そのような共同体が社会をより良くする、山積する問題を解決してくれるポテンシャルを持つようになるのではないか。

いろいろ書いてしまい乱文になってしまったが、ここまで待機児童問題や労働問題、共同体の在り方について意見をまとめてきた。これらの内容について、今回の本では幅広く触れられているので、ぜひ一度読んでみてはいかがだろうか。きっと様々な考えが浮かんでくると思う。

Before I sleep,

本を読みながら、あるピアノの曲を聴いていたら、ここ数年の記憶みたいなものが頭のなかを行きつ戻りつして、なんとも言えない気持ちになった。

いろんなものの切片のようなものがあるとして、その切れ切れが全体そのものより大切だと思う。全体の完全な記憶より、一瞬の不明瞭な記憶の方が良い気がする。

音とか匂いとかそういう五感の要素って、意外とはっきりと覚えていて、それらはいつも記憶を補強してくれる。

そして、あの時の何気ない記憶とか、そういうのを呼び起こされるのはやっぱり夜で、それも真夜中で、リラックスしているときとか、考えごとをしているときとか、そういう時間で。お昼はクリアに物事を考える時間だとしたら、夜はふんわりと、スポンジの上を撫でるような感覚で、物事に触れる時間だと思う。

考える、と、触れる、は違う。考えることは、もっと体系的で整った行為だけど、触れることは、もっと漠然として曖昧模糊で、分散的な行為だろう。

美味しい苺のショートケーキのスポンジに綺麗にフォークを入れて食べていくのが、考えることだとするなら、丸ごと口に頬張ってしまうのが触れることだ。

結局、ケーキだって食べる前の方が(人気のケーキを買うために並んでる時間だとか、―僕はケーキを並んで買ったことはないけれど―それを家まで持って帰る時間だとか)食べた後よりも幸せなんじゃないか。知る前より知らないときの方が楽しいんだろう、何事も。

数年前には楽しかったことが、今では楽しいと思えなかったりということが最近ある。歳を重ねるとそういうことが増えていくのかと思うと、とても嫌な気分になる。

寝る前に音楽を聴く。そのピアノの音色が流れると、またいろいろなことを思い出す。断片的な記憶。